前倒し 藤原純友所縁のお社巡り その一 岡山市東区西大寺一宮 『安仁神社』

 今回の旅のテーマは「藤原純友関連神社」ツアーと云うコトになっているそうです。藤原純友については天慶・承平の乱平将門と並び称される割にはあまり大きく取り上げられることの少なく、また活躍の舞台が西日本であったこともありそのゆかりの地を訪ねる機会にも恵まれず、先に探訪した日振島の空振りと言って良い不全感もあり、コレはきちんと訪ねておかねばと思ったことにあります。私を含めた平将門フリークは将門公関連の神社仏閣を巡るのが大変オーソドックスな崇拝の方法ですが、今回藤原純友関連を巡るに当たってもやはり基本に忠実に、オーソドックスに関連お社巡りで行ってみたいと思います。まあアレですな、今流行りのパワースポット巡りというヤツですな。行くとこ行くとこが悉くパワースポットぽい我々のような輩にはさっぱりピンとこない言葉ですが。
 (注、今回歴度が著しく強いので興味無い方は注意)

 その一、一番目は岡山県西大寺地区にある「安仁神社」を訪れてみました。この神社は備前地方に建つ古社で、現在の祭神は五瀬命とのこと。この五瀬命とは記紀に登場する神武天皇の兄命で、神武東征の際磐余彦尊等兄弟と共に浪速津へ渡ったところ長髄彦に敗れて紀の国に至って亡くなり後に神武天皇になる磐余彦尊にイイところを奪われた露払いのような役割の神話にありがちなダメ兄貴の典型のような人物で、詳しい経緯は不明ながらここ備前地方の一社に奉られていると云うコトで、「安仁」の社名も「兄」に因んでいるとのコト。神社に奉られるほどエラくはないけど似たようにダメ兄貴な私としては強くシンパシーも感じて、その意味では大変心易い神社ではありますね。
 神社自身が伝えている古い資料がないため、実際のところ神社が元々この神を祭神としていたのかどうか、そもそも五瀬命を奉っているのかどうかさえ明らかではないそうですが、備前地方に古くからある神社であることは間違いがないらしくかつては備前国一宮としての格式を認められていたそうです。諸国の多くの一宮が国津神系の祭神を奉る神社が多い中でこの神社は珍しく天津神系の神ですのでこの点も祭神についての疑問となっているのかもしれません。現在備前国一宮として一般に認められているのは岡山の吉備津彦神社の方で、ここらへんの経緯についてははっきりとはわかっていませんが一説に承平・天慶年間に藤原純友が瀬戸内海で反乱を起こした際に当時の一宮であった安仁神社は純友を支援、結果乱後に懲罰として一宮の格を奪われたと云うコトです。このエピソードについては主にネットに散見される説ですが元になったソース、更には大元の資料の確認ができないため真意はわかりません。が、ここで藤原純友が絡んできます。権威ある国一宮が敗軍の将に肩入れするとはなんておマヌケなお話しなんでしょう、などと言うなかれ。寺社の権威は俗世的な権力とも直結していた当時、国有数の権威=権力を持つ一宮が朝廷という古くからの権力へではなくそれに反逆する新たな権力を支持しようとしたことはこの「反乱」の性格、引いては首謀者純友自身の性格を暗に示しているようでなかなか興味深いお話しです。

 現在でも鎮座の地に「一宮」の地名は残るモノの、実際の場所は現在岡山市西区の中心地、西大寺駅周辺の市街地から大分離れた場所にあり慣れない場所の地図を見ながら場所を比定するのに苦労しましたが途中から道筋に「元一の宮」と書かれた看板が加わるようになり無事行き着くことは出来たモノの、見ての通り周囲は農村といった雰囲気が色濃く残る場所。

 数日続いたカラ天気のお陰で神社前の未舗装駐車場は砂埃に塗れて醸し出す微妙なアウトロー感は「安仁神社」の黒文字でほんのちょっと倍増される気もする、「名神社 安仁神社」は実際はそんなに変哲ない神社と言ってよいでしょう。そうだよね? コマイヌ君。

 「・・・」
 お隣の八重桜がキレイですね
 「・・・」
 どうやら無口なコマイヌ君だったらしいです。もしかして君付けされたのが気にくわなかったのかもしれません。もちろん今までコマイヌに話しかけて返事が返ってきたこともありません。

 鳥居くぐると木々の中を少し登り道。本殿始め神社の中心は山に登る途中の一画にある様子です。境内は私以外に人はなく静寂の中、山の方から時々わざとらしくウグイスの声。

 境内全景、及び各所。人いませんので神社探索にはおあつらえ向きと言って良いでしょう。

 屋根瓦にある神社紋は左三つ巴なんですがそれより上にある本殿の屋根には菊の御紋。純友に与して社格を下げられた神社にしては意外な感じもしないでもないですが

 拝殿右側(鳥居から見ると左側)に変わった名前の摂社名を抜けると。

 樋よりお神水の涌いており、コップも置いてあり遠慮なく喉を潤させていただきます。
 神社裏手には他に摂末社の稲荷社や荒神社の小さい社、神社左手にはちゃんと「左補神社」も存しておわします。神水の樋の左手には「水神へ」と書かれた立て札がありその先には神水の源泉があるのでしょう。ちょっと行ってみると

 ちょっとした山道の先に覆いで覆われた井戸らしきモノがありそれが水神さんらしいです。

 その目の前にある立て札に素直に従ったつもりなのですが。

 道ねぇよ、ああもうまたしても!

 もちろんこんなイヤガラセに屈する私ではありません。踏破強行。

 こんなとこに出ました。

 立っていた看板によると一体保護区域らしいのですが、この地図の通りに道はないのでキケンです。

 それにしてもあまり馴染みのない県名の表示は大変心躍らせてくれる。これを持ってまたしてもまたしても山道を歩かされた憤りのせめてもの慰めとす。神よ、それほどまでに私を遭難させたいか?

 その先に神池。普段人の訪れる雰囲気の皆無なため大変神秘的ですので身投げにどうぞ。

 藤棚に掛かっていない藤の花は本当に「寄生」と云った感じで全く異なる印象を持ちますね。

 ようやく神社の外縁が見えて再び境内に入ります。

 色々無駄に境内周辺を歩き回っても純友関連の痕跡はおろか、社にまつわる御由緒について書かれた説明書き一つ見つかりません。神社そのものの御由緒については拝殿前に置かれたクリアケースの中に「御由緒書き」が置いてあり、それによると昔は裏手の山の上に拝殿本殿共にあり祭司跡と思われる列石が残りまた境内からは銅鐸が発掘されていたりと先史時代からこの地が何らかの聖域であったという事は確かな事実のようです。ちなみにこの由緒書きに「藤原純友について」の話は一句として記されておりません。

 ともかくこの件については全く参考となる痕跡が見当たらず埒が明かないというわけで、宮司さんに尋ねてみる事にしました。
 結論から言うと「藤原純友との関係や所謂『一宮』から外された経緯についてはその頃の資料が残っていないため全く判らない」と云うことです。資料が残っていない原因はやはり歴代に発生した火災で古文書の類が燃えたこと、特に南北朝時代にこの近くで大きな戦があって神社を含めた辺り一帯ほぼ灰燼に帰してしまったことがありそれが一番大きな災厄であったようです。その頃この辺りはお隣西播磨に本拠のある赤松氏との繋がりが強くその巻き添えを食ったのでは? とのことです。
 藤原純友関係でここに訪れたのにそれらの言い伝え一切が伝わっていないことに遺憾の意を表しながら宮司さん、代わりにと云うことでしょうか、興味深いお話をしてくれました。ここ東備前地方は南北朝時代以前から伝統的にここより西側、吉備地方より東側の播磨地方との繋がりが強かったとのこと。それは瀬戸内を海路としての行き来が主体であった事ならではの事実で、昔は神社裏手の山のすぐそこまで海が迫りこの神社も海の安全を祈願するための性格が今よりずっと強かったとのこと。また周辺海域の島々からはかなり古くから人の生活していた痕跡が見受けられ所謂海賊、海人のルーツがかなり古くからこの辺り一帯で活動していたのは事実であり、藤原純友との関係もその延長上の出来事として結びついているのではないか? との御説は述べておられました。なるほど。

 「私がここに来てまだ30年余りしか経っていないので詳しいことが判らず申し訳ない」と宮司さん。イヤ、30年もいればたいしたものです。突然の訪問大変失礼しました。

 結果としてここ安仁神社と藤原純友との関係を物語る痕跡は全く皆無ということです。ただ私なりに想像してみると両者の繋がりは天慶二年の純友挙兵以前からある程度の関わりはあったのではないかと。周辺海域の海人、海衆に信仰を通じて影響力を行使できる立場にあった当社が瀬戸内を反乱の舞台にした純友が目を付けないワケはなく、挙兵時には既に両者の提携はできていたと考える方が自然です。乱平定の後に事の顛末を記した報告書『純友追討記』によると天慶二年摂津国における純友配下の国司襲撃を持って乱の開始と位置づけてます。藤原純友方に与した兵力の実態はよく判っておりませんが、舞台となる瀬戸内を自在に行き来する必要性からそこを生業とする海人が含まれていたと考えても不自然にはないと思います。記録に書かれた「摂津襲撃」の事件は備前、播磨沖に影響力を持つ安仁神社の影響力が関係しているように見え、或いはもっと積極的に社の手引きによって行われたのかもしれません。それというのも襲撃された国司の中に備前介・藤原子高の名があり彼はこの襲撃によって子どもを殺され、妻は奪われ、自身は命は助けられたものの捕らえられた上に鼻を削がれるという残虐な扱いを受けています。彼らが襲撃を受けた理由を記録には「子高は備前国司として純友反乱の動きをいち早く察しそれを朝廷に知らせようとした」からとありますが、それにしても彼自身に対する報復は多分に個人的恨みのこもった処断と言えなくもありません。私はこの襲撃に安仁神社が強く関わっていた理由を彼に対するこの果断な処置にあると見ます。当時、地域の開発領主としての一面も持っていた当社が、中央の朝廷側、或いは事実上朝廷を支配する摂関家側の利益の確保者として派遣されてくる国司と現地の支配権を巡って相当強い軋轢があったのではないかと想像します。その軋轢の中央側の当事者が備前介藤原子高だったということでしょう。特に子高が強権的に安仁神社と対したこと生じる確執と子高に対する個人的な恨みまで安仁神社に生じたのかは判りませんが、このように度重なる国司を通じての中央からの介入に対し例え現職の子高をうまく排除することに成功したとしても今後も同様の軋轢を繰り返すことは目に見えております。それならば中央からの介入を根本的に排除することを安仁神社側が真剣に検討したのも自然なことでしょう。当時藤原純友の不穏な動きは国司が朝廷に報告をしなければならないほど周辺国では周知の事実だったのでしょう。武力を持って中央への反旗を企てる藤原純友と何らかの方法により中央からの介入を排除したい安仁神社の利害はここで一致するわけですからどちらが先に先方に接触を試みたとしても容易に手を組むことができただろうと思います。瀬戸内周辺の危機的状況を朝廷に報告しようとする藤原子高の動きは恐らく安仁神社を通じて藤原純友に筒抜けだったのでしょう。そしてその襲撃の際安仁神社側からは「積年の恨みを果たすため子高は特に念入りに痛めつけて欲しい」旨の依頼をしていたのではないでしょうか? 同様に報告のため子高と同行していた隣国播磨介島田惟幹はこの時の襲撃であっさり(?)殺されておりますので初めから藤原子高自身の捕縛を主要な標的としていた可能性も伺えます(宮司さんの話から安仁神社周辺が播磨地方とも繋がりも強かったことは述べられていたので同様の軋轢が島田惟幹との間にあった可能性も。またこの時捕らえられた子高は後に殺されたとの説もありその場合純友軍から身柄を安仁神社に引き渡されて後の末路なのかもしれません)。*1
 更に資料のないことを良いことに穿った見方をすれば、反乱側に与した安仁神社が殲滅を免れ今に社名を残すのは乱の早い時期に純友方を裏切ったからではないかと見ています。時期的には天慶三年の将門討滅を受けて純友軍が日振島へ引き返し反乱軍の勢いが弱まった頃でしょうか? 純友本軍が伊予へ引き返したことで孤立した安仁神社が単独で降伏したか、或いはそれまで慎重に表立った純友軍への肩入れを控えていたのが功を奏したか、いずれにせよ神社の断絶は免れたものの罰として一宮格の返上、さらには荘園の没収等大幅な勢力の減退があったことでしょう。ちなみに安仁神社の祭神を「神武天皇の兄」とする伝承はこの事件を機に始まったのではないかとも思います。やはりこの地に「大和に東征して後に天下を治めた神武天皇」の「紀伊国で亡くなった」兄を祭るのは不自然です。元々の祭神はやはり国津系の神、恐らくは古代吉備国の支配者だった吉備氏の先祖神、今は吉備津彦命として皇別に組み込まれていますが、記紀神話が形成される以前の原型神、或いはその「兄」神を祭っていたのではないでしょうか? 

 以上なんの根拠もない恐らく証明することは不可能な私的仮説に過ぎませんが、しかしまあ、これだけ色々と想像させてくれるのですからここまできた元は充分取ることのできましたわ。いずれにせよ過去の出来事は過去の事として全て水に流し、この神社はこれからもここに静かに佇み続けるのだろうなぁ。そうあって欲しい、そんな雰囲気を湛えた神社でした。(このシリーズはも少し続く)

*1:大河ドラマ風と雲と虹と』にではこの子高に対する過酷な処置に純友自身とその周辺の人物の遺恨による復讐という背景を付けていました。記録に残る彼の余りに苛烈な末路に何らかの個人的感情の介在を想像するのは容易のようです。ちなみに『風と雲と虹と』の子高襲撃のシーン、全編通じて無骨な生真面目さを前面に出す将門役の加藤剛に則して笑う場面の少ない本作に於いて数少ない笑わせようとする意図を感じるシーンの一つ。ドラマでは「東国の真面目な騎馬武者」に対して「西海の陽気な海賊」という対比があり将門と純友(緒形拳)の性格の対比にも反映されている