『ザ・コーヴ』

 「無知」に向かって発せられてる映画なのだと思う*1。もちろんその「無知」には私自身も含む。

 映画の内容は各種メディアより漏れ出でてくる前評判通り、和歌山県太地町で行われているクジラ漁、その中でも特に小型のクジラ類であるイルカを大量に湾内に追い込んで捕獲する「追い込み漁」とその背景についての是非を*2問う。
 始めにこの映画一番のクライマックス、スパイ映画ばりの「ミッション」に赴くシーンを少しだけ挿入、その後彼らが言うところの「悲劇」が「秘密のヴェールに包まれて」行われている現場、和歌山県太地町に赴きこの地で「(欧米系の)外人」が訪れるという行為がいかに町で「忌諱・警戒の対象」となっている事実を監督のルイ・シホヨス氏が身をもって体験することでこの一見変哲のない南紀の小さな町が恐るるべき罪科に包まれた禍々しき魔女の町に置換される*3。主演のオリバー氏の話を「当初は信じることができずキチガイではないかと思っていた」と発している監督・シホヨス氏の弁がまた効果的にその置換を促す。

 ある考え、事象のネガティブキャンペーンを行う場合、その働きかける対象が無知であった場合、実際に働きかけを行う個人が転向者であることは多くの場合その言の内容に強い説得力をもたらす。「当初は信じられなかった」監督のシホヨス氏はその意味でちょっとした転向者というところだろう。彼による「転向の告白」は冒頭から観客に軽く疑念を植え付けるのに十分な効果を与える役割を果たしてはいるが、その役割を最大限に果たしているのは言うまでもなく主演のオリバー氏である。シーンの要所要所でその体験の断片が挿入され、また長いシーンを用いて涙ながらに語られるかれの「個人的体験」とその反省から来る「転向」は観客を説得、説得まで行かずとも動揺させるだけの十分な力を持つ。この感情的な下地を持ってして見せられる「町ぐるみで秘密を隠す町、太地」、そしてそれに立ち向かうのはオリバー氏とそれに賛同する4人の「異国人」。禍々しき町の人々の目を憚り、闇夜に紛れて行動する彼らはまさに決死の思いで正義を敢行する英雄なのである。このシーン、住民の目を避けて夜間決行されているために暗視カメラによる撮影になっているが、この可視光を通さないで映し出される岸辺の風景は禍々しさに拍車をかけ、一方で至近で映る人々の姿・・・「決行」を行う異国人のみしか映していない・・・がなぜかベトナムイラク戦争での出来事を描く映画の様に今更のように使い古された思想「アメリカの正義を敢行」するシーンとダブって見えたのは、ここまでに観客の感情的に盛り上げて行くこの映画の向きに多少のセーブを自身で課していたからなのだろう*4。この「決行」のシーンで恐らく映画が意図しているであろう「観客の感情的盛り上がり」はピークに達する。そしてその後に、その成果として明らかになった「真実の姿」とは・・・。

 ある「後悔」に対する「悲嘆」と「同情」。それに「義憤」を得て「正義」と昇華し、その決行に費やされるスリルを伴う「高揚」・・・まるで今風のヒーローモノのような筋書きではないか! 観客としてこの部分を無理なく感じることができれば、この映画が面白くないはずがない。実際に、この部分実に面白いのだ。この映画の当事者であるとか、よっぽど負の感情を持って臨まない限りココは面白い。そしてこの部分が一番印象に残れば「この映画は面白」くなるハズである。たった一つの点、「この映画はある視点を元に描かれている」「ドキュメンタリー映画」であることを思い出さなければ。

 映画の構成というか、「真に知らせたいモノ」へ至る流れについては面白いと思うし、この感情の盛り上がりの後に「伝えたいこと」を持って来て・・・つまりプロパガンダの手法に対する違和感を最小限に抑える、実に見事だと思う。この件について全く知識のない人々なら、強く共感、納得させられる力を持っていると思う。
 ただし、こう強く観客の感情に訴える手法の影で、その訴える材料、特にその真意については大変怪しいコトだらけだと云うことは冷静になれば容易に理解できることだろう。種々映画が訴えたいことの裏付けとなる出来事が「感情的に悲惨」ということ以上に問題が見えない。我々は「狩猟」という行為が対象に対して強く残酷を強いる行為であることを知っているし、日本に限らずどこの地域でも「法律に則って行えば」その行為に「違法性」が無いことは知っている。スクリーン中を血まみれの海面が覆おうがそれは「動物性タンパク質を得るための行為」であると云う理解が伴えば、「目を背ける」コトはあっても「映画の主張に賛同する」強い動機にはなり得ない。また作中の出来事に「ソース」が明確に示されないことが多いコトにも強い違和感を感じる*5。この映画で列挙される「イルカを捕ることの問題点」の中で、唯一私が納得したのは所謂「残留水銀問題」のみであって、それは映画を観るに当たって偶然調べ当てた「太地町における水銀と住民の健康影響に関する調査*6」という今年4月に提出された環境省のレポートによるモノからなので、この映画の中からではなく外部の「信頼あるソース」によって知らされたもので、要するにこの映画で語られる事象について映画からのみの情報で真に納得できる事象は皆無ということである。
 
 かと言ってその事は、この映画の評価を下げるコトに幾ばくかも寄与することはない。元々ドキュメンタリー映画とは中立的意味での「真実」を描いているわけではないし当然のコトながらドキュメンタリー部門で得たオスカーがその映画の「真実」を担保しているワケではないことは誰でも知っている。ただ、多く、自身に関わりのない事柄について大多数の人々は無知であり関心を寄せることは少ない。その意味で冒頭に述べた「無知に向けられた」と思しき映画の姿勢は決して間違ってはいないし「無知」に訴えるにはデータより感情であることもよく知った上で造られた本作はその意味で最大限に評価できる作品と言えよう。ところで本邦では何故かこの映画を「反日的」と議論する以前に映画そのものの上映を取りやめさせるような行動に出ている連中がいる様子。「観てもしない」のに「反日的」を訴える彼らもまた「感情」で動いているのだろう。彼らはその「感情」が第三者の「感情」を喚起して最大限に映画の宣伝効果となっていることを知っているのだろうか? 「観てから文句言え」とか口を出すのも恥ずかしい、当たり前のことは言いたくないのでちょっと言い方を変えよう。「君ら文句ばっか言ってないで、文句があるならオスカー取れるくらいのプロパガンダ映画にカネ出してみたら? その方がよっぽど支持が広がるよ!」。

*1:ドキュメンタリー映画とはそういうモノだが

*2:監督、主演のリック・オリバー氏始め名前のクレジットされる出演者の殆どが「非」の立場だが

*3:この部分、日本上映において予想される余計なトラブルを考慮してクレジットされていない個人の顔や一部町や海岸の風景に日本の配給者による自主的なモザイクがかけられているが、皮肉なことにそのモザイクが町に対する禍々しさを増長させている

*4:或いは、話題にされている地域を含む国に住む者としてのナショナリズムの感情があったものなのか。認めたくないが

*5:ふと、この「ソースを提示しろ」欲求はネット時代の今だからこそ喚呼される感情なのだろうか気になった。考えてみれば今まで観たドキュメンタリー映画で明確なソースが示されている事なんて殆ど無かったもんな。見る目を肥やす機会のある消費者にとっては良い時代だが作り手にとってはそれこそトンデモない時代になったもんだ

*6:http://www.nimd.go.jp/kenkyu/report/20100427_taiji_report.pdf