拾遺 宇和島市日振島明海 『天神社』


 写真は宇和島市の離島日振島を訪れた際宿のあった明海地域の内一番岬側にある地域の鎮守、天神社を上から写した写真です。上から? 上からというのはどこからですか? せっかくですので天神社そのものを紹介する前にその「上」からを紹介したいと思いますがいかがでしょうか?

 そもそも何故宇和海の離島くんだりまで遙々訪れたかと言えば、ここ「日振島」が承平・天慶の乱の西の雄、藤原純友ゆかりの地であったとのことからで、乱のもう一方、東の雄平将門と言えば外神田の神田明神・大手町の将門塚・九段の築土神社・岩井の国王神社等々、私の住んでいる場所からそう遠くない場所にゆかりの場所或いは篤く奉じる寺社の類数あることに比して並び称される藤原純友についての史跡・寺社はあまりに少なく、また活躍の場所も西国、西海と言うことで戎共の巣食う東国からあまりにも離れて気軽には行けず、ならば気軽でにはなく多少準備をした上で向かいましょう、と言うのが今回の「離島くんだり」の目的です。

 日振島には3ヶ所の港とそれに付随した集落があって、私が宿を取ったのは島のほぼ中央部にある「明海(あこ)」と云う集落。離島の、限られた集落のこととて、他に選択の余地がなかったとも言えなくはないが、島ん中を出来るだけくまなく巡ろうとすれば、真ん中の集落が妥当だろうと。

 島に到着したのが15:30頃の船。ここ「明海」の集落は島の中央と云うだけでなく、なんか集落近くに純友関係の史跡が集中しているらしいと云うコトで見学しやすかろう、そんな思慮でここ「明海」に宿。宿のおかみさんは港に船が着く度に切符回収の手伝いをしているらしく、私が着いた時も先に宿の前へ行っているよう宿の場所を教えてくれてしばらく港に残っていました。

 その後おかみさんが戻ってくると「夕飯時までこれからどうする」旨のコトを聞かれたのでまだ日も高く時間もあるコトだし「純友関係の史跡を回ってきたい」旨のコトを述べるとおかみさん、ちょっと苦笑する。なんだろうか、この苦笑は。

 史跡について、事前に大まかな名称や場所については調べていたモノのそこはヨソ者のこと、地元の人に聞くのが一番だろうと苦笑ついでにおかみさんに史跡の場所を尋ねると明海の港をはさんで宿の正面に見える山を指さしてくれた。「あのてっぺんにサクラの咲いてる辺り。右側の集落の裏側から登る道がある」ということですがその後一言「碑が立っているが他は何もない。地元の人は誰も行かない」との重要な情報も教えてくれた。そうか、またそんなんか。

 宿を出てすぐの所でたたずんでいたネコに「干物カゴと魚の網とがよく似合いますね」と挨拶するとすごくウザそうな顔をされたことはさておき、集落裏の道とやらを探すも離島の集落なんてヨソ者は凄く入り込みづらい。集落正面の道以外に横からでも裏からでも入り込む道はないかと探しているウチに集落通り過ぎて見失う。仕方がないので集落の入り口付近でなんか干してたご婦人に道を訊ねると真っ直ぐ集落を抜けて裏の道へ案内してくれる。やはり他に道はないようだ。そして例の行きたい場所について名前を出すとここでも微妙な顔をされた。

 集落の少し奥まった所にある井戸はその昔純友が城を築いた頃から使われている由緒正しい井戸とのことで

 きちんと説明書きが添えられている。大風に飛ばされないように石の重し付きで。「反逆児」はひどいなぁ。

 井戸そばに奉られているお地蔵様はお顔は削れ気味でしたが大変お優しいお顔をしておりました。

 井戸は今でも周囲の用を足すために立派に現役。本当に1000年以上前から枯れずにあるとするととてもえらいなぁ。伝説によると頭上の山の上に砦を築いた純友はそこから縄を下ろして直接汲み出していたとのこと。何故そんな器用なことをしていたのかはこれから先の記事でよくわかるとことと思います。なぜなら

 何度も言いますが、本当に、私は別に足場の悪い道が好きなわけでもなんでもないんですからね! 

 なんでこう・・・

 荒れて、ガレて、時には足場もなくて・・・

 そんな道を九十九折れに山の方へ登って行って、途中に登場した写真の立て標柱。30年前、大河ドラマ風と雲と虹と』の放送によって一山当て込んだ「藤原純友バブル」を期待してますよと述べる表示の正直さが素敵です。実際はこんな坂道の途中に標柱おっ立てる程度の見返りはあったのでしょうか? 標柱を過ぎてもまだしばらくは九十九折れの坂道は続く。

 麓のお宿で教えてもらったように、坂の上の方になると早咲きの山桜がちらほらと見かけられるようになり

 正面に巨大な碑が見えて、到着しました。ここが「純友公園」です。今までの例から言っても、そんなに苦労して到着したわけではないのですが、到着したことに何だかとてもホッとしたことを覚えております。

 見ての通り、この「純友公園」、周囲囲む木々の内、元から無いのか、それとも公園開設を機に剪定されたのか、島の南東方向一帯が見渡せる展望台のような雰囲気。

 この日天候も良い方だったため、ここから可能な限り望むことのできる景色がほぼ手に入り、途中頭に「?」を浮かべながらもココまで登ってきた甲斐があったというモノです。

 島の南東方面(喜路集落のあるあたり)を挟んで群島、その向こうが四国本島でしょうか? 土地勘がなくよく判りません。伝承によると純友軍はここから北方面、佐田岬半島の瀬戸内海側に物見を置き、松山方面から敵の動きがあれば狼煙を上げてすぐに対処できるようしていたとのことですが、そちら側方向は残念ながらよく見えません。
 湾内無数に浮かぶのは養殖用(多分ブリ)の生け簀ですが、この場所から想像力を動員して見ると湾内を埋め尽くす軍船に見えませんか? 見えませんね。
 このようにこの場所からの眺望、純友の本拠地の名に違わずなかなかのモノです。一方で肝心の「公園」の様子はどうなっているのかというと・・・

 故意か、自然によるモノか、破壊されたベンチ。ここに来るまでにてきた、満遍なくガレているのに全く手入れされていない先程の坂道と同じような放置具合を感じてなかなか味があり

 こちらも悉く、満遍なくアレという光景がまたますますアーティスティックで良いモノですね。ちなみにこの崩壊ベンチの先にある土の壁のような崖、砦であった頃の土塁の名残と言われてます。

 ここを訪れた皆さん、意外と言っては失礼ですがこのように空き缶をくず入れに捨てて帰っています。くず入れの缶を回収する人がいないので放置と殆ど変わらないのが難点ですが。

 公園内の構造物のほとんどがこのような惨状の中、ほぼ唯一崩壊を免れ現在も頑健に海風に向かって立っているのが公園入り口(?)に立っていた石碑です。正面には「藤原純友籠居之碑」の文字が記されており、碑の裏側には建立の趣旨が記されています。それをそのまま写すと「はるかに思いを千有余年のいにしえに馳す。その賊名を免るる能はざりしを喜ばざるは論なしといえども、扁舟を帥(ひき)いて活躍したる豪壮敢為の行動海国男児としてエライ男だという感もまたやや起こらざるを得ない。すなわち一碑を建立して記念とする 昭和十四年五月 山下亀三郎」と読める。随分と豪放な文言でごく最近のモノかと思いきや戦前のモノ。当時、記念碑の類の文言はガチガチの文語・漢語調とほぼ決まっていたのにもかかわらずこのように叙情溢れる言葉で純友を讃えた山下亀三郎という人物、この場では存じなかったので帰って調べると戦前活躍した実業家で、船成金として有名な人物だったとのこと。自身出身とする伊予の先人で、同じく海を人生の主な舞台とした先達に強いシンパシーを感じていたことを伺える一文です。

 「夜になるとイノシシが出る」宿の予約を入れた時、また宿の付いてここの場所を訊ねた時、宿のおかみさんはそう念を押したがそんなに深刻そうな素振りは見せなかった。昔はイノシシなどいなかったのだが何でも最近になって四国本土から泳ぎ着いたのが繁殖してすっかり居着いてしまったのだということです。よっぽど居心地がよいのでしょう。公園周囲には街灯もない、人通りももちろんない。早くなる前に帰るが安心と思い、いちど居着くとなかなか去りづらい、何だかイノシシの気持ちもわからんでもない気持ちになるここ純友公園を離れることとする。その帰り道、お宿のある明海の集落をその正面、明海港を挟んで眺めると、集落の海側の先っぽに何だか神社アリ。時間があれば寄ろうか。そうですこれが冒頭に写真だけ見せた神社です。なんと、これからやっと本題に入ると云うワケですが、もうこうなったらどうでもヨイでしょ?

 さっき登った坂道を降りる。登りの時には気がつかなかったのだが、この道、分岐アリ。といっても集落、海岸の方へ向かっているのは確かなので帰りはこっちの道を選んで降りていくと

 なんかネコがえらいこっちゃに大量に占拠している路地に差し掛かる。

 離島のねこ様を刺激しないように別の道を辿ろうとするとここにも

 ココにも

 もうカンベンして下さい(ニヤニヤ)。ところで何故彼ら「ねこ様」と呼ぶかというと(自分が勝手に呼んでいるのだが)彼らの祖先は「宇和海ねずみ騒動*1」に立ち向かった誇り高き戦士達の末裔であるからだ。そんな彼らに敬意を表して日振島ではネコを大切にするかというと

 そうでもない。むしろジャマらしい。

 好きで来たんでもないのにこの仕打ちはひでぇよなぁ、おい。

 じゃ、帰るか。その前に。

 明海集落の鎮守、天神社。ココの神社はというと・・・うむむ日が暮れるし記事も冗長すぎてこれ以上読むのも書くのも苦痛だ。仕方がない、続くにしておこう。(まさかの本題入らずに次回へつづく)