藤原純友所縁のお社巡り その二 倉敷市下津井松島『純友神社』

一度の旅行で行った先を繋いでという一応シリーズのつもりだったのですが、前回*1より大分間が開きましてこうなってしまうとどうでも良い人には本当どうでも良いのを承知の上で、またしばし自己満足のお付き合いを。
 
 「藤原純友」「祭神」でググると多く引っかかってくるのがこの岡山県倉敷市にある「純友神社」です。「唯一藤原純友を祭神とする神社」と紹介する記事も多いのですが、藤原純友を祭神として第一柱に挙げる神社は他に愛媛県新居浜市の中野神社もあり、合わせて二社が知られている事になります*2。ただ社名に「純友」そのものを関する当社のインパクトは絶大で、「唯一の」と語りたくなる気持ちも解らないでもない。ただこの神社の鎮座地、行政名こそ「倉敷市」となっていますがその存する場所を「倉敷市」と認識してイメージする人は皆無、その場所は倉敷市内でも旧児島市に属する下津井地区、更にその先の瀬戸内海上に浮かぶ松島という離島に島の鎮守としての役割も担い存するのが当社「純友神社」なのです。その鎮座地「松島」、現在推定人口2世帯3名、紛う事なき過疎まっしぐらの離島、それがあちこちから得た「松島」の情報でした。まずこの島に渡る手段を講じる事が「純友神社」への参拝の道というコトで、禁足地でもないのにこのハードルの高さはなかなかのモンで、過去参拝した全国的に高ハードル参拝で名高い太田山神社*3に匹敵する難度とも言えるかもしれません。

 島に渡る手段構築の四苦八苦については別記事に挙げたのでご興味があればそちらを→http://d.hatena.ne.jp/sans-tetes/20100712

 船が着いたのは当然島唯一の港。船は何故か、防波堤で囲まれた港の内側に入らずに一番外側の防波堤の先っぽに舳先を付けてさっさと退散。「島」とは云え現在の人口から云えば殆ど「人ん家」もしくは「その庭」に入り込む感覚。余所者が土足でそんな事すれば命の保証がないコト地元故に渡船の業者は知っているのだろうか? 冗談だよ、判ってるだろうけど。けどね、やはり「人ん家」にそれこそ縁もゆかりも無いヨソもんが上がり込むわけだからそれなりに緊張はしますよ。住民に出会ったらどう対応しようかとか、上陸したら島の集落の方まで入り込んでいく、防波堤の辺りで留まっている釣り人とは明らかに違う当方の行動をどう警戒を解こうとか。

 島の集落は港の目の前の坂道に沿って上の方へと段々建てられています。その港で、住民2名の方が魚を干していてニアミスを避けずには目的地へ向かう事の出来ない、いきなり恐れていた事態に遭遇。どうする? 

 こういう場合は勿論挨拶です「こんにちわ」。そしてさも判らない風に道を尋ねます「純友神社はどう行けばよいですか?」。何気ない言葉の中にさり気なく「上陸の目的」を織り込む事で住民の警戒を解こうという試みです。男性(出会ったのは二名とも男性)は目の前の集落中を通る坂道を指差して純友神社への方向を親切に教えてくれました、本当は知っているけど・・・。

 目的を明らかにする事でとりあえずは住民の方の許しを得たと捉えましょう。これでもうほぼ安心。少し集落の各家を写真に収めながら坂道を登ります。この道こそが集落ほぼ全ての家屋に繋がる島のメインストリートです。頬を家の軒がかするような公道(?)と家屋の位置関係、隣家との生活域の近さ、都市部に住んでいるとイヤイヤのウチに経験を強いられる事柄なのですが、離島における「この生活」ではどの程度の心理的距離感と考えればよろしいのでしょうか? 確かめようにも島内、殆どが遺棄されたままの家屋が目に止まり、島民に確かめようにも確かめようがない、現在人口3名という現実です。最も島民の方がいたとしても直接お尋ねするような厚かましさなど持ち合わせてもおりませぬが。

 急坂を登り、途中で分かれ道。家屋へ向かう道以外で分かれ道が出たのは最初ですが、もしかして最後になるんじゃ無かろうか? 地図を見ると左側の道は更に上り坂を経て島の北側の海岸線に沿いながら西側へ向かって行っているようですが、お目当ての「純友神社」へはこの道を右に曲がったほうにあるようです。この分かれ道は集落で一番高所にあるお宅のほぼ目の前に当たり、「純友神社」の方向へはこのお宅の前を通って行くことになります。今まで多く通り過ぎ、目立って「無人でござい」という風の家屋とは違いきちんと生活している様子の見えるそのお宅のお庭で、60代後半くらいのご婦人が野良着を着てお庭に生えている柑橘類の木をデジカメで収めている。間違いなくこのお家の住人、勿論挨拶、挨拶・・・「こんにちわ」。

 挨拶の効果か、特に警戒する風でもなくご婦人は私に「何してるの?」と訪ねてきた。イヤこれは警戒の上での質問だったのだろうか? ともかく私は嘘、偽りなくこの質問に答えさせていただいて、今度はこちらから同じような質問を返す。今考えてみれば人口3名の島に勝手に上陸しておいてこの質問もずいぶんだなモンだと思うが、ご婦人からはにこやかにご返答いただく。
 「その内住めないようになるから、今のうちに島の様子を撮っておくんだ」と。結構重く深いお返事、にもかかわらずそれと感じさせることなくにこやかにご返答いただきました。続いて私が訪れた目的、純友神社参拝のこと、藤原純友史跡巡りのこと、色々とお話ししているうちにならば案内しよう、これからやることといっても特に急ぎの仕事でもないからと、図らずも地元民の方に島内ガイドをしていただくことになってしまいました。どうしましょう。ご婦人の名前はSさんといい、S姓は先祖代々この島に住む家の一つで、嘗て島内一つしかなかった姓がとある理由で3つに分かれたうちの1つだそうです。ちなみに先程港でいたお二人の男性、島に残る二家のそれぞれの長でお二人はご兄弟でもあり弟さんの方がお話を聞いているご婦人の旦那さん、計三名二世帯、これが島の住民の全てということ間違いのない事実とのこと。

 ちょこっとやり残した仕事を片付けるSさんを待つ間、目の前の坂道、純友神社への正参道。鳥居というモノはありませぬのですが門柱一対。用意終わって出てきたSさんに案内されてこの先の、藪に覆われた道を行く。

 「ここを右に曲がればお稲荷さんがある」とのことだが、ちょっと分かれ道には見えませんでした。目指す純友神社は左側でそれまで、右側は手入れされず荒れ放題の竹藪、左手は木々に覆われその先は崖の、海の・・・「ケーッ!」突如甲高い声がしてその方を観ると赤ら顔のキジさん二匹、間違いなくつがいでしょう。普段人が通らないところを余裕で通り道にしていたのが突如人が現れたのでキモ潰してトットトットコ、崖の方へ逃げていきました。キジが現れた右側の竹藪、純友の砦跡の伝承のある場所で、Sさんが若い頃は一面果物畑だったとのこと。今でもちゃんと土地の持ち主は居るには居るが島を出て久しく、今は荒れ放題で竹の生えるまま。そう言えば竹で覆われた奥の方に何本か背の低い木が葉も付けず立っている。あれが果物畑の名残だろうか。いずれもっと竹が生い茂れば藪に飲まれるがままに木も倒れて消えてしまうのでしょう。「もったいない」Sさんは何度も嘆息しておりました。

 純友神社はすぐです。途中坂から降りてくるのと周り藪があるのとで近くまでこなければ姿を確認ができませんが、まさに狭い島の中すぐにその気にならなくても目をつぶっても到着できる距離です。それを心得た上で、普段人の来ることがないのは明らかな、隠された感のある神社、そんな第一印象。

 神社までの道が荒れ果てないように草を取ったり掃除したりと適当に気を遣っていたとのコトですが、神社自体に来るのはSさんも久しぶりとのことです。正面「大魔祓災禍」「敬神興幸蘄」の文字が刻まれた石柱に深い由来は感じられます社殿周囲、当然のコトながらお世辞にも手入れされているとは言えず、荒れた感は否めません。

 神社前に狛犬は二組の計4匹、何を誰から守ればよいのやら、そう思ってのことかは確かではありませんがちょっと当惑しているようなお顔が印象的です。

 拝殿の後ろに本殿、御神体の安置場所。木々に覆われてはおりますが裏はすぐに崖、その下は海、恵まれた自然環境とは言い難い位置、海風嵐を受けてあちこち綻びが目立つ拝殿を申し訳程度に二本のつっかえ棒で支えています。このつっかえ棒、荒廃に心を痛めてはいるモノのたいした補修もできずに頭を悩ませた末せめて倒壊は防ごうとSさんのご主人とその兄とで置いたとのこと。昔は島の若者総出で神社の御輿を担ぎ島中を練り歩き出店も出てと大層栄えていたとのこと。祭が行われなくなったのはもう何十年も前の話ですがそれでも島民の崇敬を保っていたモノのさすがに今はこの有り様Sさんの言。昔島を出て本土へ渡り大層な成功を治めた元島民が40代で頓死してしまったことを誰言うことなく「島を出て後一度も氏神さまに参らなかった祟りだ」と島民は噂したそうです。

 もう何年も開けてないので中の掃除でもしようかとSさんの案内により拝殿内へ。確かにひどく、積もり積もったホコリで充満。その中に、

これが昔使われた、今後二度と使われることの無いであろうお神輿、頭上にはいくつか奉納額も残っています。一ノ谷直実敦盛場を描いたモノや高僧の霊威譚を描いたモノ、ホコリに塗れてはいるモノの長い間日に当たっていなかったお陰で鮮やかな色彩は今にも残ります。

 Sさんは以前、拝殿内を片付けて貴重なモノは除けておいたとのことですが、何故か除けずに残っていた奉納額があるのを大変感心しておりまして、一度大掃除の際きちんと整理して痛まないように保管しておくとのこと。このように不本意にも手入れもされず荒れるに任せて放置されている中にこのような立派な方の額が残っていたりとまだまだ手入れの余地もある氏神さまの惨状を、Sさん大変気に留めておりまして、「嫁に来た立場だから」と今まで島の古いコトについて余り口に出さない様にしていたのを改めようかと仰っておりました。そんな、ヨソ者なんて、現在島に残っているたった三人の住民さんのお一人がなんて奥ゆかしいことを・・・「今住んでらっしゃって一番に島のコトを思っていらっしゃるのだから口出しとかそんな風には考えなくてもヨイのでは?」通りがかりの気楽さと無責任さから私の意見をご助言させていただきましたが、私、間違ってますでしょうか? 数年前のことですが目の前にどろーんと伸びた橋体を晒す瀬戸大橋が架橋後十周年の節目を迎えたというコトで周辺地域がニワカに賑わったとのコトで、その際本州四国の記者さん達がこの島にまで訪れてSさんから色々と聞き取りを行ってそれが記事になったとのことです。その中でM日新聞高松支局の記者さんがSさんの歴史好きを聞いて地域に関する論文等いろいろな資料を今でも送ってくれるとのこと。その資料の中に純友神社に関する話題に触れられることもあるモノの大体が数行を越えることのない短い記事で、要するに学術的にもこの神社については殆どよく解っていないとのこと。Sさんが下津井からこの島にお嫁に来た時、港正面から見える島の山並みがいろいろな草花で色鮮やかに栄えているのが大変印象に残り「ああなんて良いところにお嫁に来たのだろう」と感じたそうです。以来この島を愛して止まないSさんは当然このお社のことについても興味を持たれたモノの、神社の由来はおろか島と藤原純友に関する言い伝えも残されておらず、現在この神社について唯一知られている「泥棒除けに御利益あり*4」というお話についてもSさんはご主人や代々の島のお家から聞いたわけではなく件の記者さんから送られてきた資料で知ったとのこと。つまりこの神社についてお膝元のここ松島、現在限界集落状態を優に超えてしまっている現状より遙か昔に言い伝えは絶えてしまっていたと云うことです。それでもSさんご主人の若い頃は年一度の島の住民総出でのお祭りがここ純友神社を中心に行われ、神社を出発、若い者が担いで島を練り歩く御輿が通る道には出店屋台も並んでいたそうでその頃の写真がSさんのお家に大切に保管されているとのコトです。

 Sさんにとにかく島のコトをお尋ねすると嬉しそうに知ってることを色々と教えてくれます。よっぽどこの島を愛して止まないのでしょう。一方で、この島とお隣の釜島*5だけが周辺の「塩飽諸島」中で岡山県に属することについて、「樽流し*6」のお話には「四国の人はずる賢い」と何百年も前のことをひどく憤っておられて、これが純粋な郷土愛が簡単にナショナリズムに転化するという典型なのかなと感心しました。現在の島民、二世帯三人、実はSさん宅にはネコが数匹、全てわざわざこの島に来て捨てられていたのを育てたそうです、ってそれはひどい話だなぁ。その内の1匹は生まれつき腎臓が弱いらしくエサを選ぶとのこと。このコのためにわざわざ本州よりエサを取り寄せるため、実は島の中で一番食費がかかっているのがこのネコと云うことで、言わば現在島の実質支配者がつまりこのネコ、島の王様です。そのせいか人見知りがひどく知らない人がいるのが解ると絶対出てこないそうです。実際に見れませんでした、残念。さすがは王様です。ネコの王様の治める島の空気は、海からの島の木々に洗われた風に吹かれて涼やかです。 続きます。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sans-tetes/20100509#p2

*2:摂社・末社クラスならもっと多いと思う

*3:あるお方曰く「北海道のお笑い神社」→http://d.hatena.ne.jp/sans-tetes/20090922

*4:その昔、この神社のお賽銭を盗もうとした泥棒が盗み損ねたとのお話に因るようですが、具体的にどんなエピソードなのかはどこを調べても載っていませんでした

*5:同じように純友の砦地の伝説があり、現在は無人島。お向かい「鷲羽山下電ホテル」の宿泊者が希望すれば遊覧船で渡島させてくれるそうです

*6:岡山と瀬戸内海を挟んだ対岸高松とで塩飽諸島の帰属について長年争った結果、「海上に樽を流してその流れた線を境界とする」妥協案が図られ、結果現在の県境になったとのこと。これは普段より周辺の潮の流れを熟知した高松側が自身に有利になるように仕向けた結果とのこと