延岡、廃モノ2種

 ウチの母の実家延岡なんです。私が小さい頃は何故か帰る事が少なく、その限られた帰郷時もいつも自動車+フェリーと、当時既に自動車で家族旅行することの方が一般的でしたし自動車ちうツールがガキ連れには大変便利ちうツールであることは認めるところですので致し方のないこととは云え、結局のトコロ、最長で東京・西鹿児島間を往復していた寝台特急「富士」に乗る機会の無かったコトは今でも大変な心残りです。乗り物オンチが年々ヒドくなる割にはしっかりと羽田には行けるらしく現在里帰りに航空機を利用する母をうらやましいと思ったことは一度もないが、かつて東京から「高千穂」や「富士」に乗って遠路ちんたら帰郷していたという母は心底ウラヤマシイと思う。


 「延岡」と来てその次「廃モノ」と来るのだからアレしかないだろうと思われるでしょうがまあアセるな。確かにその予想で間違いないが、延岡には日本有数の物作りメーカーとして日本の発展に寄与したり時にやり過ぎちゃって色々迷惑かけたりと、ともかく日本の近代産業史とは切っても切れない関係にある大企業旭化成のプラントが大量にある。だから初めにそれを眺めてからでも遅くはないではないか。

 日豊本線を大分・佐伯方面から来るとそれまで山ばっかだった景色が海が近づき延岡駅周囲は大分開けた平地の様に見える。延岡駅周囲はほぼ完全に市街地と云ったところだが駅を過ぎ五ヶ瀬川系の川を何本か渡ると本格的に工場地帯に入る。川を渡ってから次の駅、南延岡駅までの間路線はほぼ工場の敷地内を通るかの有り様でこの中をJR九州の印象的なカラーの列車が疾走する様はなかなか気持ちがよい。

 列車内で海側でも山側でもぼーっと見ているだけで遠くを見れば煙突を抱えた巨大な工場の影、近くを見れば素人にはとても用途の判ろうはずのない複雑なパイプラインが知恵の輪の様に入り組む姿、別に何も考えねぇでも今工場の只中を走っているのがよくわかる。列車に乗車する地元民はいつも通る見慣れた車窓のこととて全く興味のない素振りを見せているがそんなことはない。いつだったか延岡から関東に帰るの段、列車の待ち時間があったのでそれならばと叔父と従姉妹とが案内してくれた市内中の「自慢の場所」のとある工場の一つの空高く伸びる巨大な煙突の麓だった。ので、判る人には判る名実共に郷土の誇り、興味あるヤツは適当に延岡・南延岡間を往復してくれい。まだ春だと云うに南国だからと云うだけでは説明の付かない炎天下の中俺は歩いたが。

 ちょっと苦労して歩いて眺めたコレ関係の景色のウチ、一番のお気に入りがこれ。一見曲がった歪な様に見える造詣ですが、工場の機能重視の中にも通行者への心配りを感じる優しいパイプです。

 歩いて辿り着いた、嘗て工場からの荷の積み卸しが盛んに行われていたらしくかなり巨大な敷地を誇りながら今やその用に供する意味も薄れただだだっ広い殺風景さが目に付く、南延岡駅です。

 ついでにこちらは北延岡駅です・・・と思ったらなんと写真がない! ともあれ、宗太郎越の記事で述べましたが延岡・佐伯間の駅には普通列車が一日に上下各3、4本しか停まりませんのでこの駅に行くことも大変貴重です。

 「北」と「南」の他に延岡にはもう一つ頭に方位の付く駅が「ありました」。どの方角が付くのかは延岡駅の東側がすぐに海になるので判ると思います。その「ありました」駅の近くにこれまた更に昔に「ありました」モノの跡があります。その「更に」がどれくらい昔かと言えば今から400年くらい前の昔でしょうか? 何故なのか詳しいことは判りませんがこの記事の中では「ありました」と言う言葉が二つの全く異なるモノを指している様なので便宜上「北と南と東以外が頭に付く駅」の方を「ありました(1)」として「その近くにあるこれまた更に昔、400年くらい前のモノ」を「ありました(2)」と分けて呼ぶことにします。まずこれから語るのは後者の「ありました(2)」のコトです。

 「ありました(2)」と云うのは「松尾城趾」のコトです。せっかく各「ありました」の定義をして100字にも満たない内に「ありました(2)」の正体をバラしましたが、あの持って回った前振りは一体何だのでしょう? それはともかく「松尾城趾」について。
 延岡市内のお城と云えば市街地近くにそびえ立つ山の上に痕跡を残す立つ平山城の「延岡城」が幕藩時代を通じての政務地としてシンボル的な意味を持ち有名ですが、その延岡城が築かれたのは確実な記録によると江戸時代以前を出ることはなく、豊臣治世を得て江戸初期、延岡藩の殿様が内藤家と定まるに至るまでめまぐるしく変わる藩主家の居城としての役割を越えることはなくそれ以前に今の延岡周囲を治めていた豪族とは殆ど縁もゆかりも無いと云うのが事実です。
 それ以前に延岡地域を治めたのは「土持氏」と呼ばれる豪族の一族でこの土持氏、奈良時代から日向国に土着していたと云うからそのルーツたるや古いことで知られる薩摩の島津氏以上に古くから九州に根付いた一族であったと云います。大仏造った時手伝ったなんて話が出てくるんですから途方もないことです。世が移り変わり大体の大名豪族がその祖先を取って付けた様に源平藤橘に収束する中で独自の血筋と活動の記録を数百年に渡って残す「ウチは国造流れでござい」なんて家系がゴロゴロしている九州の名族はこれだから面白い。

 延岡辺りを治めたのはそんな土持氏の中の一系列「縣(あがた)土持氏」と呼ばれる系列で、嘗て日向国中に根を張った土持氏一族の中でも戦国時代後期までにほぼ独立を保つ最後の一族であったとのことで、当時は一時日向国に覇を唱えた南部飫肥の伊東氏と対抗、豊後の大友氏や薩摩大隅の島津氏と手を結び渡り合っていたのが、後に日向国を平定した島津氏に服属するや日向征服を目指す大友宗麟の第一の目標とされ無勢のまま大友方の大軍と対峙、居城である松尾城に於いて一族全滅したとのこと。その後延岡(当時縣)に入った各大名が延岡城を居城としたため松尾城は名実共に城としての役割を終え土に戻るに任せることになった、つまり江戸時代には既に立派な「廃モノ」であった松尾城の跡に何となく行ってみたくなって行ってみることにしました。ちなみに松尾城落城後、ちりぢりになった土持家の生き残りは帰農するか或いは島津氏を頼りその地で島津氏に仕える薩摩藩士になったそうです。それにしてもこの延岡が結果的に「薩摩の先兵」となった故事、ずっと後の西南戦争でも似た様な故事が見受けられ松尾城からそんなに遠くないところに西南戦争薩軍の一員として参加した延岡士族の最後の舞台が投降した場所に碑が立っている。

 西郷隆盛らの薩軍本隊は延岡北方(旧北川町)の急峻な山々を越えて肥後経由で鹿児島に逃げ延びてるからこの地に残った延岡隊は見殺しにされたと云えなくもない気もする。大体この兵乱で西郷率いる薩軍の行動は一貫性に欠けるもんだから薩軍本隊以外の他地域の部隊はあっち行ったりこっち行ったりと動きの定まらない薩軍に翻弄されて孤立した感もある。国道10号・日豊本線で北上すると西の高千穂方面にずんという風にそびえ立つ可愛岳を戦時強行突破してついでに西側の手薄な官軍を痛打した機動力は冗談のようで笑ってしまうほど恐れ入るが、戦略家という意味で西郷隆盛は全く評価に値しないのだから仕方がない。

 苦労しない程度に色々と当たってみると、この「松尾城趾」、古くからの伝承地と考古学的な成果との間に若干ズレがあるらしく、現在城趾の碑が立つのは古くからの伝承地の方らしい。この両者の差異を描いた地図を見てみるとその故地の傍らに悉く「TR線」なる描かれている。この「TR線」とは何であろうか? 現地へ行くと不思議なことに「TR線」と思しきモノは何もない。不思議なことである。重要な鍵となるはずの「TR線」が全く当てにならないため他に適当な目印として「高千穂街道沿い」「五ヶ瀬川沿い」がポイントになり、それらをアテにして目標に一番近いと思しき五ヶ瀬川にかかる「松山橋」を渡って川の向こう岸に渡ると

 案外簡単に看板見つかる、「松尾城趾」。看板の貧乏臭さが若干気になるところだが

 看板二つ目が見えて、コレは確実に目的地へ近づきつつあると見せかけて、以後「松尾城趾」への看板消える。本当にワカラン。目印の「TR線」も無い。仕方がないので以後推測で当たってみるコトとする。

 怪しいのが橋を渡ってすぐ右側の高台にある神社。川岸の高台にあるというコトで敵に対する防衛には大変有利、また城跡が神社になっていることはよくある。コレはクサい。ただし規模が小さく他の台地と孤立している点が気になる。とは言っても他に怪しい場所は見当たらないため行ってみようとすると(写真は神社脇のゴミ捨て場にめり込んでお奉りされていた大師堂)。

 反対側のもっと高い山の上に「本東寺」の看板。先程「松尾城趾」の看板と一緒に立っていたお寺の名前。神社と同様に城跡が後に寺院になっていることもよくあるお話し。どちらかと言えばあちらの方が怪しいか? 城の本丸を建てるとすれば川そばで孤立している高台より背後の山と連続しているあちら側の方が整合性が高い。

 ちょっとキツめの坂の上に「本東寺」はありました。日蓮宗を掲げています、なんの変哲もない普通のお寺です。歴とした城跡なら看板の一つ立っていても良さそうなモノである。そんな境内の、まだ草の絡んでさえいない藤棚の下でなんかの作業を中断してなんか弁当を食っているなんかのおっちゃんがいたので訊ねてみると。
 「★○〜〒☆※←△!」あまり早口の延岡弁であきれたような返答ををいただく。全然聞き取れませんでした。おそるおそるもう一度訊ねるとこちらの意図を理解したのか今度はゆっくりと答えてくれたので、すがやはりネイティブ色全開の延岡弁は変わらずでしたので何となくしか意図がわかりませんでした。どうも「もっと山の方(指差してくれた)」らしい。そして「何もない(こちらは大体聞き取れた)」らしい。何もないのは望むところですが、どれくらい行った先に目指す城趾があるのかはワカリマセンでした。ちなみにうちの祖母も電話で早口でしゃべられると言ってることがよくわからなくなります。
 
 先程「なんの変哲もない」と言い捨てたこの「本東寺」ですが、後で調べてみると実は例の土持氏が松尾城に本拠を置いていた頃からそこにある由緒ある古刹で、初期藩政時代の延岡藩主家有馬家の崇敬を受け代々のお墓も境内にあるとのこと。写真は日向御前こと有馬家延岡藩初代直純の正室徳川家康の曾孫に当たる国姫のお墓。彼女の豪放、傑女振りを讃えて延岡ではお転婆娘のことを「日向御前」と称するそうですが初耳ですので今度祖母にでも聞いてみることにします。それにしても愛媛の離島で藤原純友史跡を回って来た後にその子孫を名乗る家(肥前有馬氏)のお墓のあるお寺を偶然に回ろうとは奇縁を感じますが、探訪当時は気付かなかったのを遺憾とします。

 門前の道は幸いにしてほぼ一本道。この先はお寺の墓地へ通じておりますので更にその先だと当たりを付けて先を行くことにします。

 丁度お彼岸と云うコトもあり数組のお墓参りがいる墓地を抜けたさきにある何だかワカラナイのがこの広場。周囲明らかに不法投棄と思しき粗大ゴミが散乱しているのに石で造ったベンチやテーブル。木々に遮られ眺めが良いわけでもありません。初めはここが目指す城跡かと思いましたが道は更に先に続いている様子でここを目的地とするにはあまりにも不自然な状況、多分違うだろうと更に先を行きます。それにしても例えばここで、廃棄された洗濯機を横目にメシとか食わされるコトは随分陰湿なイジメだなぁとか感じました。 

 それで、で、また山の中かよ!

 ま、人跡絶えるような山の中ではないので、呑気カマしながら行くことに。考えてみれば行く先は城跡なんだからそう簡単に到達できては普通困るんだよな。
 
 道は城跡、もしくは城のあった山の裏側の外縁をなぞるように通った後、今度は崖の間を縫うように通ります。崖の上は嘗ての本丸付属の出城、砦の跡でしょうか?

 その内の一つにお稲荷さんを見つけました。

 更に進んで本丸跡に到着。それはもうあっけなく。

 本丸跡は周囲より一際突き出た山の上にありますが現在では周囲木々に覆われ眼下の五ヶ瀬川もその向こう広がる延岡市街を見渡すこともできません。普段人の頻繁に出入りする様子さえ絶え、まさにひっそりとという言葉が似合います。その場所に嘗ての城主土持氏を供養する石碑に近代の戦争に於いて出征した戦死者の慰霊碑。土持氏供養塔の前には二個の甘夏が供えられてます。地元の人によるモノでしょうか? それとも土持氏の子孫によるモノでしょうか? 大友氏の大軍に敗れ、居城を終われた土持氏の一族は薩摩島津家に仕えたり土着したりで今でも南九州のあちこちでその末裔が命脈を伝えてるのでしょう。一族の嘗ての隆盛と悲劇を伝えるこの地にこのように立派な碑を建てたのはその末裔達の仕事なのでしょうか? 一連の碑の後方一体は一面桜の木。満開の季節は恐らくこの場所が一年でもっとも賑わう季節と思われます。

 その一連の碑の向かいには謎の遊戯場。もちろん誰もいません。

 碑と遊戯場には挟まれた微妙な空間に東屋があるのでそこでおにぎりを食べました。延岡一番の廃モノ上で食べるおにぎりは美味しかったですが雰囲気は微妙でした。(つづく)