]特別展『五百羅漢』〜幕末の絵師狩野一信」 於江戸東京博物館

 「私だよ、明智君」べりべり

 狩野一信*1と云う人のイメージはここの所頓に公開の機会が増えた若冲さんを代表とする所謂「奇想の系譜」と云う流れ*2に属する画家の一人として記憶していたのですが、その実際の画業に触れる機会は今までになく、時々各種メディアより紹介される、その一信の「奇想」を奇想たらしめん増上寺蔵『五百羅漢図』の断片的な記憶でのみしかなく、その奇想『五百羅漢図』が全100幅、全て一同に公開すると云う今回の無謀な展覧会を逃してはもう生きている内にお目にかかる機会はないだろうと、権力争いに端を発する混乱の極みにある職場を仮病で退散してちょっと両国まで行ってきました。

 実物初めてお目にかかります一信さんの印象は、若冲蕭白等の「奇想」を看板とする画家達と比べると若干の違和感があります。ただそれは、私自身が「奇想」の画業を始めとして特にどーぶつのえを好むと云う嗜好を差し引いて考えた方が良さそうです。一信さんの画も中盤以降特徴的などーぶつさん達がこれでもかと登場するので同様の嗜好を持つお方は少し我慢をしましょう。あくまでも一連の画業のテーマは「羅漢」さんです。

 その「羅漢」さんの日常からお仕事、暇潰しにまで至るまでありとあらゆる羅漢さん方の日々の暮らしに密着して取材して、それを画にしたというような、まずは全体的にそんなイメージで観て頂ければほぼ外れでないと思います。ところが羅漢さんというのは仏法を強く守りそれを他社にも強く教え広めることで尊敬を受けるようになった仏教のエライお人達なので、その日常が普通であるはずがない、これ重要だと思います。
 主役の羅漢さんはあくまでも人の形をしていますので、その造形は尽く人です。私が一連の画中最初のテーマ『名相*3』において登場する人形(ひとがた)の羅漢さんを観てちょっと「奇想」と云うほどではない、との印象を抱いたのはココにあります。羅漢さんの造形、年齢不詳、人種不詳、国籍不詳、修行僧なのに皆一様に衣装がハデ*4奇想の片鱗が見て取れますが、正直「奇想」とするにはもう一捻り欲しい・・・そんな印象でしたのが、それは全然甘かったこと、それは『名相』3幅目に来て早くも己の不明を恥じることになります。

 一幅一幅の特徴として、なんと云うか、一幅一幅に物凄い沢山の情報が詰まってるんですよねそれはもう凄まじい数の情報が。一信さんが頭の中から沸き上がる止められない想像力を一幅一幅それぞれに描ききれるだけの数を全力で表現して、その上に感じられるのがおそらく「百幅では描き足りない」と云う自身の想像力に対しての絶望的悲壮感。表現者として乾くことなく沸き立つ想像力を紙の上に十分すぎるほど弄ぶ喜び、一方で表現者としての性の残酷な体現、この一幅内、端から端に至るまで塗り込められたいささか賑やかに過ぎる羅漢、その他登場者(人・獣・魔・物)のそれぞれに関連していそうで全く関わりのなさそうで、個々バラバラに行動している様が実は一つのテーマとして集束を求められるモノなのか、あるいは本当に互いの存在を認識しないモノ達の如く支離滅裂にただの同居以上の何者でもないのか、そんなことを考えながら一幅一幅眺めていくと頭がおかしくなるので*5幅笑いながら通り過ぎよう。例として冒頭の挿絵は第55幅『神通』の極一部なんですが、もうこの中に怪人20面相バリに正体を明かすナゾの羅漢さんに、その後ろで体洗ってもらって大喜びのゾウさんと、もう既にワケワカラン*6

 全100幅の画、一信さん、これだけの画を一度に描けるわけ無く長い年月をかけて徐々に描いてきた関係で、画のアクセントに変化が出てきます。同様に、作中の羅漢さん始め登場者達の振る舞いにも若干の変化が見て取れます。例えば羅漢さんのある行動で、前の画と後の画とで若干の矛盾を感じ取れるような。これは作者一信さんの心境の変化なのでしょうか? 全100幅の後半に至って、その心境の変化だけでなく体力的な衰えも加わったらしく、画に一部稚拙な部分が見られるようになり、最後半部分は前・中盤の唖然とさせるような奇想からかけ離れてしまい、大分大人しめといった感じになってきます。その、画風の温和しい変遷の裏に、そこまでして続けることに一信さんの画業の凄まじい業を見て取れるわけで、軽々しく「残念」などと言う言葉で括ることは出来ません。一信さんにとって正に身命を削って完成を期したのがこの『五百羅漢図』であり、一人の画家がその人生で培った全ての想像力と技術を体現するに、「画家の業」という凡人には想像外の苦行を垣間見る、なんだかこの作品への敬意は笑うだけでなくひれ伏さなくてはいけないような気がする。もちろん、人生とか業とか勿体ぶった重しを取り去った画家としての一信さんはこの作品を観る人に、何となく楽しげな、そんな気持ちで画と仏道とに接してもらえればと、そんな風に考えていたような気もします。

 「さすがだな、明智君」べりべり

*1:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E4%B8%80%E4%BF%A1

*2:そもそもが当該の画家の時点で「独立独歩」を重要な画業のテーマとする「奇想の系譜」と言う言葉にこの「流れ」と云う言葉はそぐわないモノなのかもしれませんが

*3:羅漢さん達の日常という意味らしい

*4:冷静に考えてみればこの時点で既に十分アレなんですが・・・まるでアドレナリン依存症者のようにどんどん敷居の高くなる「奇想」って怖いわ〜

*5:一幅一幅徐々に変化を効かせてくる巧緻、微細の妙を得ながら時々外したように陳腐な彩色もサイケに作用する

*6:全体で観れば「神通」と云う題名通りの整合性は読み取れ無いわけではないのですが