伏見稲荷大社 お山 その5 「お山負け出で深草の」

(http://d.hatena.ne.jp/sans-tetes/20130401の続き)
 お山巡りもいよいよ佳境に入りまして、残すところは「一之峰」、まあ伏見稲荷の最奥の深奥と言って概ね差し支えない場所を制覇すればいかな不信心の身をしてもその御利益の余香位は嗅げるやもしれぬと、そうなれば後は外界の稲荷門前お土産屋で心置きなくグッズを見定めてと、最早「稲荷きつねお山スタンプラリー」の如く行く場所行ける場所をただ行けるが肝心の慢心を持ったことが今思えばいけなっかたのでしょう。

 慢心の小さな火種はせっかくお山より発せられるヨクわからないけど心持ちよさげな空気を感じる程度の心の機敏をも奪っていたのでした。・・・もう後あとほんの僅かの歩みで最後の神蹟に到着するだろう石段の下に何やら観光客が沢山集まり、しかもあと数歩で達するであろうお山最後のお峰に足を向ける様子さえ見せない。衆生何やら神意を疑い互いに耳打ち、そのような様相。その尋常ならざる態度、或いは神意への畏怖吹き飛ぶことも覚悟の上で私も、その惑える衆生に混ざろうと思う。彼らは一体何を耳打ちしているのか?
 「・・・きつねがいるらしい」「お社の辺りから動物の叫び声が聞こえる」「何やら唸っている」「恐ろしくて近寄れない」嗚呼なんか今昔物語チック・・・さすがお山! と喜んでばかりもいられない。物語ならばここで弘法大使とか藤原保昌とか良秀とか仲代達矢とか出てきてなんか治めるンでしょうが残念ながら今は物語ならぬ現の出来事にて、先客の戸惑い歩みを留めるのいちいち気にしてられない、私には京都で留まる時間がそんなにあるわけでないのもまた現。もしもきつねに会えたらそれはそれで素晴らしく、思い通じず毒気に当たり例え狂ったとしてもまあ別に惜しむ命でもなし

 果たしてその正体は・・・

















 ネコの喧嘩でした。そんなこったろうと思った皆様、所詮お約束。

 ネコの野郎、あろう事かこの場所あの上で睨み合い、唸り合い、そろそろネコパンチが出るぞ、と云った辺りで人間登場して退散。仲良うせえよ。それとそこには登るな。

 などと、さすがに神蹟での狼藉は見るに見かねると説教の一つでもかまそうと現場に乗り込んだ時にはねこ既におらず、肝心な時に姿を見せないまさにねこ。説教しようと息巻いて階段踏む私の後を先程までワケのわからぬ呻き声に恐懼をきたしていた他の衆生

 なんと云うことか、お山最後の峰

 まさに最後の砦とばかり本日最も殊勝な気持ちで

 段を上るその一歩一歩を踏みしめ噛みしめ伏見稲荷大社の最後を飾ろうと

 思いも裏腹に、ねこども説教の息巻いた、やや穏やかならざる気持ちで極めてしまった最後の峰

 肝心なところで全てを台無しにしかねない抜けをやらかすの・・・

 まあ私らしいと云えば私らしいか

 最後の峰のおきつねさまに尋ねるともなく声にも出さずなんとなく問いかけながら、いつの間にか自身の心境、やや達観に近づくの心持ち・・・それは今や外界遙か遠く離れた「お山」の醸す気に当てられた、と云うよりは「鳥居」「社」「茶屋」「きつね」「お塚」「ねこ」等々・・・とこの場に至る全てにおいて好ましい、その悉くが愛おしい「蹟」と化しその「蹟」を踏むこと知らず知らずそれを自ら無意識に「蹟」を自身の経験としたことでしょうか?

 いずれにせよ

 無知・無教養の驕児をもって一時でも達観の針を振るお山の深遠、筆舌尽くし難し。姿は見えずともその雰囲気は感じられるほど核心に近づいた、位の「気はした」、さながら「無信心の割には案外お山の境地を共有出来た?」そのような声が聞こえた様な・・・いや確かに聞こえた。ネコでなくキツネの。

 どっぷり身に纏った濁世の塵、多少は拭えた気持ちで降りる一ノ峰の段、背に迫る感強くますます念の勢い盛んなお塚。後はお山降って温そな土産物屋でも堪能するかい、謂わば「陽の気」に当てられた私が見たお塚の最後の姿がこの景色です。

 一ノ峰から再び四ツ辻に至るお山道、行く手に現れたのは久方ぶりの分かれ道。まさかこの期に及んでお山と下界の拝殿とを分かつ道などあろうとは。思えば道、いつの間にか山道になったり稜線に沿って向かう先に「山科」の文字が見えたり、今思えばおかしいと思うところ多々ありました

 ただ実際の歩行時もその思いうっすらと抱いていたのですが、むしろこの伏見稲荷お山の稜線がそのまま山科へ続いていることの京都地理無知の田舎者故の驚きの方が勝っていたというのが当時の感覚で

 その後行く手に再び何やらのお堂が現れ山道脱するを知るに至り

 更に再びお塚らしき景色が始まり抱いた一抹の不安も解消

 と、言うには少々違和感の残る景色

 その、新たに現れたお塚集団、先程の四ツ辻〜一ノ峰間に見られたお塚と違い何やら寂れた感。

 行き交う参拝人のいないこと、丁度山の陰、木々の傘に遮られ終始薄暗く光の届き難い場所に

 断っておきますがその寂れた感のお塚、決して好ましくないモノでなく。むしろとても

 さながらお山の裏面密かな隠されたお塚という雰囲気、好ましからざろうはずのない、一方で、寂寥さに満ちた風景より去来する幾許かの不安。

 眼下に何やら建物見えて少しは人心地付くかと、不安和らぐかと少し歩みを早めると

 行く手更に

 好ましき「陰の気」に満ちた

 夥しき

 お塚の山

 「陰の気」とは決して否定の意を持つわけではなく

 むしろ、その、なにか

 一仕事終えた感というか

 オフシーズンに行楽地を訪ねる感というか

 その予感の的中を見るのはこの、今までとは趣異なる「お塚」とはまた別個の個人の奉納物(場所?)

 「お塚」「鳥居」「偶像」と今まで現れた奉納とは一線を画する「滝場」の奉納。近づくこと憚れたので遠巻きに望遠。

 お滝場というかお禊ぎ場、いつの間にか迷い込んだのはなんだか端々手作り感の横溢するお清めの場

 書き殴りと身紛う大胆な手作り感に笑みもこぼれ

 茹だる暑気の季節、行者の身を清めんと盛んに滝に打たれる様、と云うより暑気払いの一環としてのお山の役割を想像。

 いずれにせよ夏過ぎて秋まもなく深く、この場所に用のあろう業者のいようはずもなく、結果人気のない陰の気に満ちて、また異なるお山の別の顔を垣間見た気もして
 
 その直後に突如人の家、何処だろうが何でも走って届ける佐川の人。

 否応なしに何の用意もなく唐突に引き戻された現実に

 まるでキツネから放り出されたかの様・・・

 どうも先程の声は聞き間違いで・・・

 「不信心者のお帰りはあっちやで〜」・・・このお山からの負け出っ振りこそキツネさんに化かされたかの様

 化かされたと言えばこの「お山負け出道(今勝手に命名)」周囲の竹林が非常に優麗

 私が普段見る竹林は手入れ行き届かず荒れるに任せ腐り倒れた竹が醜く重なり積もりとても見るに堪えないモノ。手入れの行き届いた竹林のこのように好ましげなこと、京都に来て初めて気付いたのは非常に情けなく候と

 何処より響く鶏の声。深草の里ならば鳴くはウズラであろうに、この田舎モノと人を喰った感は正に化かされた感

 いつの間にやら「深草」の住所表記の街並みを歩き辿り着いた藤森駅京阪電車を待ちながら、そう云えば大社下の土産物屋街を冷やかしそびれたと気付いて、益々キツネに放逐された感強いままに伏見を離れる車中夢うつつ・・・「不信心者のお帰りならあっちやで〜」・・・そう聞こえた、確かに。(おわり)