『善き人のためのソナタ』

映画の日なのにあまり人が入ってないのが気になる。良い映画なのにねぇ。最初に言ってしまうが。
「シュタージ」、その言葉が実際に血肉を伴い恐怖と賞賛を帯びて世界に君臨していた頃、言葉の意味するところも知らず、無闇に東側諸国を理想として賞賛する社会科の教科書を鵜呑みにする無垢な少年の心に、冷たく、鋭利なその語感のみが深く刻みつけられることになる。・・・その言葉に対する、私の一番初めの記憶である。
語感のみでその組織の性格を恐ろしいほど正確に直感させることから、恐らくはただの略称としての名称としてではなく、たとえ無意識ではあったとしても、何らかの作為をもった名付け親を想像せざるにはえない。

欧州で最も勤勉で実直な人々が住む国は何処か?ほとんどの人が「ドイツ」と答えるだろう。その、ある意味大変優秀な人々のほとんどが、狂気という同じ方向を向かされて走り続けた第三帝国と、やはり自らの内外関係なく、存分に、遺憾なく狂気を発露した赤い帝国の、神前の契約の元に生まれた由緒正しき全体主義国家で、体制を維持するための恐るべきシステムが持ち前の勤勉さでもってほぼ完成した1980年代のお話。
純粋に実直に、国家の主義主張を信じる。純粋に実直に、己の使命を信じる。それをもってして純粋に実直に、己の任務に忠実となる。そんな純粋で、実直な男が、純粋にお互いを思い純粋な人生を送ろうとしながらも、それ故に純粋に人生を生きることが出来ない二人に惹かれていくことは、ある意味当然だろう。完璧に構築されたシステムのなかで、任務に私情を絡め始め、それ故に更に歪に運命が捻れていく三人の様は大変おもしろい。常に水面の下に隠れ、絶対に表に出てはいけないはずの男が、おそらく初めて、厳格に体系化された任務に逆らって対象者と接してしまう、直接的に対象者と、気付かない内に自分の運命を変えてしまうシーン、後半、「尋問者」として、かつて運命に触れたことで、自分の運命まで変わってしまい、或いは自分の今後の運命が変わってしまうかもしれない、事を恐れながら、対象者と再会するシーン、それぞれもさることながら、それらが対比されることで、より素晴らしさがいや増すシーン。
東ドイツのね、生活、風俗、至る所で物凄い上手に再現。格調高く演じられてる劇の舞台は女性がライン上で働く国営工場・町中を走り回るトラバント・あちらこちらで掲げられたホーネッカー議長の肖像とそれを丁寧に敬愛する人々・・・。徹底した管理主義のなれの果ての恐ろしく貧相で滑稽、喜劇のような現実。それらの記号が現れる度に、劇場内で私一人がバカ受けしていた。

「名前は?」「・・・僕の?」「ボールのだ」「ボールに名前なんてないよ」名前の必要のない国家のボールだったはずの男が、一瞬だけボールであることを放棄し、意志を持つ一個の人間となった瞬間、すべての運命が変わったお話。