『ジュビリー』

 封切り時観れたわけはなく、当然DVDにての鑑賞。購入の際、パッケージに書かれた監督名〜ディレク・ジャーマンの名前など知らず、その他キャストもほとんど存じ上げない。かろうじてリチャード・オブライエンを知っていた程度(もちろん『ロッキー・ホラーショー』の制作者として)。内容も「パッケージに書かれている」以上のことは知らない。
 では何故購入したか?理由は単純。「パッケージに惹かれたから」。私が購入したのは恐らく日本で一番最初に販売された時のシリーズで、普通に売られているCDと同じような透明のケースの両面に、それらしいレイアウトのパッケージを差し込んで、表側と裏側、DVDと向かい合わせに歌詞カードのように解説が突き刺さった形のシンプルな外見で、その割には結構な値段がしたことを覚えている。地元駅前のディスクユニオンで何故か正面がよく見えるよう棚前面に陳列され、それでいて店内に一つしか在庫がない。何気なく手を取る。そこには、ヴィヴィアン・ウエストウッドのデザインするガーゼ素材のカットソーに、昨夜確かに見たがほとんど記憶に止めない夢(恐らく悪夢)の例えようもない不安感のみ顔の表面に傷跡を残しって行ったか如くのメイク、ツンツンにおっ立てた髪の毛との間には、地と演技との区別に戸惑うとことと同様、悲観と傲慢とを同居させる神経症的視線が挑戦的態度と相俟って手に取った客を挑発する。作中「彼女の歴史」を書き留めるシーン、彼女の視線と交わるよう、このように商品をディスプレイした時点で店員の完勝である。

 ロンドン・パンクがほんの一瞬だけ咲き誇った徒花で、ムーブメントそのものが欺瞞に満ちたファッションにすぎなかった事は、30年を経た今だから言えることで、「英国病」も「東側諸国による静かな恐怖」も当時としてみれば未来永劫続くものと思われた、この上ない真理であり、解消しようのない不安感は下層階級に属するすべての人々の心を荒ませる。70年代から少しだけ未来のお話。破壊の衝動を押さえるためのモラルは崩壊、瓦礫、弄ばれた後に晒された遺体、常にどこかで燻る煙、恐らくバッキンガムから歩いて行ける距離まで膨張した共産圏、想像外のロンドンに降り立ったのはこれまた想像外の人物、400年の昔から近従と共に降臨した女王エリザベス一世、未来の世界には自らの後身が「退廃の女王」として君臨する、目を覆うばかりの惨状を呈する世界をつぶさに見て回る。当然、「常識」と言われるモラルを持つ者がとても生き難いこの世界に住む人々は当然「生きるため、何ら生産的概念を持つことがないキチガイ」ばかり。これが映画のストーリーである。

 現実世界においてはマーガッレット・サッチャーの登場によって「英国病」は緩解する。作中、当然「新自由主義」なるイデオロギーは存在せず、心身共に荒廃・逼塞した民衆を救うのは「ただ破壊の衝動を旋律に乗せただけの音楽」パンクである。この世界ではパンクは一瞬の徒花に終わらず、全てを刹那に忘れるためだけの鎮痛剤として作用し、ゴッド・セイブ・クィーンを唱する声はファックを叫ぶ声にかき消され、やがて唯一無二の消費物、パンクを提供する音楽業界が国家に代わって真に民衆を支配する。先に述べた理由により、少し高所に立っていることを除き、その性質の何ら変わることのないキチガイ共の、次々と生み出される黄金のクソ=パンクを排泄する様(シーン)は、その場を演じている役者達(或いは素のままでも一癖も二癖もありそうな)の怪演で、大変すがすがしいモノに。エイベックスのスタジオでは日がなこんな光景が繰り返されている、大変参考になるシーンである。強者が弱者を搾取する構図は変わらず、「逃げようもない現実」を場合によっては解放してくれるかもしれない、割合近くに存在した国家群の存在、少なくともその漠然とした幻想が全くないということ位である。

 何故か、当時作成されたSF等近未来を予想した映画の中で、当時は一番あり得ないと思われていたはずの未来が一番それらしい。