自己愛の権化その2〜某作家〜

 誰も憶えてないだろうが5月4日の続き。
 始めに断り。以下話題として述べる三島由紀夫の事について、筆者はほとんど知らない。はっきり言ってその著作さえまともに読んでいない。そのため以下は筆者の想像。妄想といって良いかもしれない。あしからず。

 平岡公威が肉体改造に成功して今までとは見違えるほどの肉体とそれに付随する健康を手に入れたのは30歳に達する頃だったか?好物は「お茶漬け」。数種の典型的な青年をサンプルとして巨大なガラス張りのコレクションケースにでも飾る必要が生じたとき、「文学青年」というカテゴリーを代表するのはまさしくこのサンプルに他ならない。優等生的と言うに相応しい典型的な蒼白い容貌、もしも真に、己の自己愛を、生まれついてのその時から信じて疑わないのなら、別に「生まれついての蒼白い」容貌を愛するに何の違和感もいらない。優性遺伝の結果を盲目的に信じればよいだけである。そして、鏡に映るそのような自分自身を、そのままに愛することのできなかったことが平岡公威の三島由紀夫たる所以なのであろう。決して鏡に映ることのない「自らの才能」を形而上学的に証明する意思を秘め、「天才たる魂は、それに相応しい肉体に宿る」とでも呟く三島。その時、鏡の中に存在するのは、既に「紛う方なき」三島の姿であろう。

 肉体的裏付けを伴い、「三島由紀夫」内外全てにおいて、唾棄すべき理由は何処にも見当たらない。他人にとって悉く不愉快、にもかかわらず異常に評価の高い細江英公撮影の『薔薇刑』。現在、新装版でさえ筆者にとってはとても手の届かない値段で書店に、時には堂々と並ぶ。そのことまでが当時既に計算されたかのような、押し付けがましさ。奇妙な背景・シチュエーション、三島以外、かろうじて撮影者以外の観者は、これをどう観よというのか?
 少なくとも自ら用意した最期、人生最高の舞台として、彼がこれまで培ってきた美学の集大成たらんとしたこと、「自己愛」もその美学の一葉を担っていることを信じたい。結果としてその美学を飾れたかどうかは甚だ疑問と言わざるを得ないが。繰り返して言うが、筆者は三島由紀夫のことをよく知らない。その上での言葉とお断りした上で。

 ますますもって何が言いたいかわかりませんが。反省します。実は更に「三島由紀夫は受け」であったという伝説について(事件後の検死結果にそのような物証があったそうな)、自らの「自己愛」の成せる業、ということについても述べるつもりだったが、更によくわからない内容となると思うので。

 迷惑でしょうが続く。