久世番子『暴れん坊本屋さん』

 毎度の事ながら、今更私如きが紹介する作品ではないが。
 一時期、某全国紙を初めあちこちで書評が載り、少女漫画系の比較的マイナーな作家、出版社にも関わらず爆発的に売れた(?)作品なので、実際に購入して、或いは書評から、もしくは立ち読みで・・・、その内容については御存知の方も多いと思われる。そのためここでは詳しい内容の説明は割愛。要は漫画だけでは食っていけず、本屋さんでバイトしながら糊口をしのいでいる作者が経験した「世間一般と比べて少し常識外なこと」を本と本屋さんへの愛情を込めて紹介するお話。
 さて、昨今、ただ単に「本を購入する」という「お題」だけで、市場経済やら格差やらウェブやらといった社会に関する議論ができてしまう。住宅街の近所にちっちゃい本屋さんが必ずあって、店頭には欲しい本が必ずといってよいほど置いてなく、お店に注文して当てもなく待ち、いざ入荷するとお店のおやじがお家に届けてくれる、という時代が嘘みたいである。いやまて、大きな規模で「回帰」しているだけなのでは?
 こと本だけの話ではないが、だんだんと、「一歩も家を出ずに本を得る」ことが当然の事になっている(らしい。正直なところよく知らない)。「注文を受けることをほぼ前提とし、入荷の際玄関先まで届けてくれた」近所の本屋さんを壊滅に追い込んだ現行の書店さんが、今度は「ウェブを通じて注文し、数日で玄関先まで届けてくれる」ネット書店の脅威に曝されているのは、かつて抗生物質によって克服・勝利し人類がが、耐性結核菌という驚異と再び対峙しているようなものか。ただ、直感的に、間違っても「近所の本屋さん」と「ネット本屋」を同一視、あるいは直系の子孫とするような感覚は生じまい。
 ここでお断り。以下の論はあまりにバカげた私の個人的な思いこみ(或いは信仰)に似た考えに基づくため、甚だ客観的な視点とは言い難いので、その点を考慮していただければと思う。
 さて、私は愚直なまでに「本は店頭で購入する」派、である。郊外型書店の勃興と歩を合わせて成長したという背景を伴い「本は書店で買うモノ」という強烈な刷り込みを受け、同時に「ヒマで金がないときはなんとなく本屋に行く」という福光しげゆき的小規模行動を人生の中で多く経験していることも相俟って、本屋(書店)に対して「本を買う所」以上の恩恵を受けたという点が大きい。また、更に個人的な考えとして、「書の神性(もしくは人格)」を強烈に信奉する事も大きい。本屋に行くことは私にとって「本に会いに行く」ことなのである。棚に向かい、個々の個性を有する本達と向かい合って、その本と個人的邂逅を通じて初めて本を得られること、それこそが私にとって本屋で本を購入する何事にも代えられない醍醐味なのである。たとえ、初めから購入する本を決めて行ったとしても、やはり実際に本と向かい合うことでその神性は強く受ける。残念ながら、電子の窓の向こう側で佇む本達にそれを感じられるほど、私の感性は深くない。
 もし、世の中が「効率」「利便性」のみを唯一の思想として動いていくのなら、本屋ほど(業界のシステム・慣例も含めて)その思想に反する小売業もあるまい。その意味で真っ先に消滅してもおかしくはないとも言える。その時この漫画が、かつて存在した「本屋での販売を前提とする本の流通業界」を表彰する記念碑的作品として、再び日の目を浴びるかもしれない。その時までに、どのような手段を用いても本の神性を感じられるよう、私はより深い感性を得る必要がある。それができなければ、私は本を読むことを放棄しなくてはならない。かつて存在した「本を買う喜び」を思い出させてくれるこの漫画を読みながら。
 最後に告白。今回の入院、予想外に長期になるに当たり、持ち込んだ本を悉く読み終えてしまい、その意味で撫柳を託つこととなり、行動著しく制限された病人の新たに本を得る手段として、件の方法を試させていただいた。入院中、何故か院内にコンビニが開店し、配送物を受け取る体制が整備され、全くもって完璧に近い環境、利用するなという方が無理であろう。ただし、購入した書籍は以前より書店店頭にて既に神性を通じ得ていたモノの、諸処の事情によりその場で購入するに至らなかった本達であったことを申し訳程度に断っておきます。
 もう一つ断りついでに。当ブログに張り付けられいるアフィリエイトのリンクはあくまでも文の補足としてイメージを見せるという目的が強いので、万一リンク先で商品が欲しくなってもできるだけ店頭で購入するように。