『怪談』

 平日の昼間、よりにもよって何故ホラーをというと、それほどまでにヒマしてるということです。

 それでは映画について。
 原作は三遊亭圓朝真景累ヶ淵』。もう初めに言ってしまいますが、原作をよく知っている人は観ない方がよいです。はっきり言って原作に遠く及びません。などと偉そうなことを言う私は全て通しで観たことはないので、本来偉そうなことを言える立場ではないのだが。どこかで観る機会はないかな?
 例の如く事前の評価等には殆ど目を通さず、ほぼまっさらな状態で観賞。原作(私は速記本の類で何度か「読んだ」にすぎないのだが)は御存知の通り、物語の始まりに怨霊の祟りを下敷きにしながらも、話の中心として語られるのは、人間のエゴが為すどうしようもない業とそれに翻弄されて絡み合う多くの登場人物達の不思議な縁。怨霊の視覚的表現を最小限に抑えながらも、理屈では説明の出来ない数々の邂逅を通して、そこに介在することを認めざるを得ない「何か」の存在こそが「真景」の神髄であり、またこの物語が「只の怪談噺」ではない由縁である。私の独断と偏見を言わせてもらえば、原作のこの噺を怪談噺に区分することに抵抗を感じる。むしろ「怪談の要素をうまく取り込んだ人情噺」と言うような位置づけになっている。
 そのため、その表現方法を、必然的に、必要以上に視覚的要素に頼らざるを得ない映画というメディアで、ジャンルを「ホラー」としてこの噺を取り込むこと、そのそもそもからして間違っている。百歩譲ろう。前述、原作の醍醐味を十分吟味した上で「それでもなお」との思いを込めて制作した意欲的な監督の仕事と仮定したとして、「怨霊の所縁」を前面に出すことを重視しようとしたにしても、あまりに「消化不良」の感は否めない。日本古来の「怪談の楽しみ方」と、昨今の「魅せる」ホラーの融合を試みた結果が「後者の露骨なまでの重視」。今後の「怪談」がこのような形になるのなら、そんなお話なんぞ御免である。
 まあ、制作者としてもいろんな都合があるのでしょうから、ここまでボロカスに言うのは酷でしょうか。2時間ほどの枠の中に、「恐怖」「お色気」等定期的に山場を入れて観者を飽きさせないようにしなければいけない。そのために、いろいろな方法を使った視覚的表現をふんだんに使わなくてはいけないのかもしれない。ただ、そのような「魅せ方」はテレビのドラマに使えば十分の方法であるわけで、金払って観に行かなければいけない映画にそんなモンを持ち込むんじゃない。美しく巨大な画面、素晴らしい大音響、それで内容がテレビドラマだとすると、これはもうタチの悪い冗談でしかない。

 しかし、「損した映画」の特に悪口を並べるレポとなると大変冗舌になる自分の性格に、大いに反省。