廃線萌え

 バスに乗車し、そのまま目的地の三保まで行かずに途中で降りたことには当然訳がある。清水の市街地が途切れた当たりから、旧清水港線の路線跡がそのままサイクリングロードとして残っているという。清水港線とは・・・面倒くさいから略。興味あることは自分で調べましょう。
 事前に大まかに調べたところ、清水市街を流れる巴川の河口近く、旧巴川口駅付近よりロードが始まる様子。そこから三保まで、路線跡に沿って歩くことを計画する。
 三保行きバス、当然「巴川口」という名のバス停はない。それらしいバス停の名前も、土地勘のない旅人の身にわかろうはずがない。ので、だいたいの見当を付けて下車。巴川を越えてすぐの停留所、「総合運動場前」に当たりを付ける。何故か、やはり観光客らしい夫婦連れが同じ場所で下車、降りたバス停でしばし周囲を見渡し、呆然とした後、巴川の方に歩いていった彼らは何処へ行くつもりだったのだろうか?
 バス停のある場所、道路と垂直に、海の方まで伸びる遊歩道を少し延長した場所に位置。当初はこの遊歩道が廃線跡かと思ったが、それにしては広さ、位置が変。その遊歩道の植木に水をまいているおやじさんに、「鉄道の跡」を尋ねる。どうやら古くからこの場所を御存知のようで、線路が通っていただいたいの場所を教えてくれる。件の遊歩道はやはり廃線跡ではなく、道路より海側に50メートルほど入った辺りに道路と平行して走っていたとのこと。よく見ると北側(市街・巴川側)にある植え込みの向こう側、工場か何かの敷地内にモニュメント化された旧巴川駅跡が残されている。
 教えてくれたおやじさん、当時のことをよく知ってそうな雰囲気で、巴川口駅のこと、その先清水よりの巴川上に架かっていた可動橋のことなど少し説明してくれたが、お仕事中ということでもあったので、もっと詳しい話は聞けずに、教えてくれた礼を述べて別れる。初めに初めに廃線跡だと思った遊歩道、どうやら昔河川か用水路だった跡らしい。先程のバス停を遊歩道側から眺めると、橋の遺構が残っていて、かつてはこの川を渡る形で合ったことがよくわかる。川は埋め立てられ、橋だけが一部残ってしまっている。遊歩道を海側まで歩くと、道は唐突に途切れ、港湾整備の工事現場にブチ当たる。かつてあったモノを壊してまた新たに何かを造りだしている途中らしい。川にせよ、線路にせよ、一度つぶしてまた造るモノに、何ら意味を見いだせない。現在工事中の何かについても、結局そのような結果になるような気がする。ここの場所に造られるモノは、全てそのように運命付けられているのだろう。全く根拠はないが。
 この時点では、旧巴川駅をモニュメント化して保存している施設がどんな性質のモノか全くわからなかった。あるいは、跡地を買い上げた後工場でも建てたオーナーの道楽かとも思ったが、ともかく施設正面から入って、見学の許可を取ろうと思って、炎天下、ちんたらちんたら施設の表門らしき場所まで歩く。「静岡県清水浄化センター」門にはこのように書かれた看板。公の施設で、特に敷地内に入るのも自由の様子。考えてみれば当たり前だ。今のチンケな世の中で世の中に、自分ところの敷地内に過去の遺物をモニュメントとして整備してしまう奇特な経営者がいようはずがない。
 敷地内、駐車場の中に、ぽつんと佇むモニュメントは、完全に場違い。およそ列車2〜3両分の長さのホームとそれに沿った線路、ホーム上には「巴川口」の駅名表示と「清水港線」の説明、最終運行時の写真入り。何本かの木が植えられて、きれいに整備されている。当時有名だった、一日一往復しかない路線のホームにしては現在のホームは綺麗すぎる気がするので、恐らくは当時の駅と路線跡に沿って新しく作り直したのであろう。恐らくこれが旧清水港線「公式」の記念碑。古き良き時代の思い出をこのようにきちんとした形で残す姿勢は大変評価に値する。が、廃線跡の探索を行うという道楽においては、あまり面白いものではない。当然のことだが、きちんと整備された敷地内にこれ以上の遺物・痕跡の類は確認できなかった。最も、現在浄水センターになっている敷地全てが巴川口駅の跡地だとすると、かつて日本の貨物輸送の主流であった「ヤード式」に必要不可欠である広大な駅敷地の名残と解釈すれば、大変巨大な遺構として残っていると言えなくもないが。
 さて、旧巴川口駅の北側には、旧清水港駅跡にあった「テルファークレーン」と並んで清水港線中二大シンボルとなっていた巴川可動橋が架かっていた。路線が廃止された以上、船舶の航行を妨げる可動橋は当然無用の長物の何物ではなく、当然撤去されるところとなり、現在は跡形も残っていない。先程話を伺った水撒きのオヤジさんの言から、まさにその姿はいつまでも記憶に留めるほどの偉容をであったとのことだが、既にその姿は幻となって久しい。現在もエスパルスドリームプラザ内に産業遺物として往時の偉容を留めているテルファークレーンとは対照的である。
 とは言え、廃線跡を散策する際、橋の跡というモノはえてして何らかの痕跡が残りやすいものである。この可動橋の場合、特に残りやすい「橋脚」の部分が構造上ほとんどないため、通常の橋と比べて痕跡として残している部分は非常に限られてしまうと思われるが、せっかくなので、巴川付近まで戻ってみることに。もっとも、浄水センターの敷地が川岸ギリギリまで取られているようなら、近付くことも困難である可能性もあるのだが。
 幸いにして(?)浄水センターの敷地は川岸ギリギリまで迫ってはなく、敷地と川の間には湾港側で何か作業をするための車の通り道になっていて、未舗装の道路になっている。その道路を巴川に沿って湾港側に歩くと、未舗装の中に一部分だけコンクリートで舗装された部分がある。そのまま線路の路盤にしては不自然だが、その幅は単線路線の路盤より少し拾いといった感じか。位置的にも、先程の「旧巴川口駅モニュメント」の延長線上にだいたい重なる。駅側はすぐにセンターの敷地になるため、柵によってコンクリートの「舗装」はそこで途切れる。川側に目を向けると、コンクリートの「舗装」は川岸ぎりぎり、その部分だけ河岸も舗装される形になっている。その「舗装」は水面に入ったところで水面に沿って少しだけ向こう岸に伸びる形で途切れて、護岸工事によって河口まで真っ直ぐ直線に造られた川岸にあって、その部分だけがほんの少し出っ張っている形になっている。何らかの構造物があったらしいことは想像されるが、それが件の可動橋であったのかは確信できない。因みに向こう岸、その延長上に位置する部分は綺麗に護岸工事が施されていて、同様の出っ張りはおろか、周囲の岸との差違を見つけることはできなかった。
 何度も言うように、これが可動橋の遺構であるかどうか確信は持てない。が、先程の水撒きおじさんが話していた誇るべき可動橋、私の頭の中だけではあるが、この場所にしっかりと偉容をたたえることができた。今はそれだけでも十分満足である。

 この辺りは工業地帯として区画されているようで、清水港線無き今も、要用の工場やプラントが、当時とは形を変えてはいるであろうが、その偉容は衰えていない。旧巴川口駅から南側には現在何かの工場が立ちはだかり、痕跡と言えるモノを完全に覆い尽くしている。その工場の敷地を避けてしばらく国道沿いを歩く。行き先表示によるとこの道の先に三保と日本平があるとのこと。目的地の三保はともかく、この道を進むことで日本平に着くとは想像できない。
 出発地点を見つけたのは本当に偶然である。旧巴川口駅を出てすぐに行き先を塞いでいた工場の敷地が終わる辺り、現在は工場の駐車場となっている場所の正面、南側からまっすぐに自転車道が延びる。この意味のない、用途不明の道路の形状から線路跡を確信。道路は海岸線と、国道に並行する形、南に向かってここからまっすぐ直線。途中車道と交差する所には車両進入止めが行く手を遮る。当時も同じように車道が交差していたのかどうかはわからない。自転車道=歩道=線路跡は現在は工場の敷地を分断するように走る。大小、わりあいいろいろな工場の脇を通るため、もし今も変わらずに路線が走っていたとすると、工場の屋根・庇(?)を掠めるように走る列車の車窓は、さぞや「絶景」であろう。この景色の良さはわかる人だけわかればよい。
 工場街を抜け、視界を遮る建物が一瞬途切れる。右手にツタだらけ、甲子園外壁のようなスーパー。左手は線路沿いにまだしばらく工場・倉庫が続く。往事、今でも残る川崎・千葉の臨海鉄道のような風景が浮かばれる。ここでも海岸線と国道に沿うように東側にカーブ。倉庫と、道に沿って植えられた樹木の陰から、唐突に列車が現れる。予期せぬ出会いに少し動揺して感動するが、その保存場所のあまりの脈絡のなさにすぐに醒める。旧清水市内線にて使われた車両とのこと。続いて旧国鉄の客車が登場。場所との関連づけはあるものの、何故かその客車を牽引べく配置された機関車の投げっぷりに再び脱力。トドメはそれに続くボート(由来読んでないのでよくわからない)。このユルさは大変好ましい。
 一部、旧路線跡と新たに作られた歩道に沿線の工場・倉庫の構内道路が入り交じるように舗装されているため、どの道が路線跡なのか混乱する。また、所々「公園」のような小さな広場が現れるため、そのような場所が現れる度に次の停車駅「折戸駅」かと錯覚。単線・無人・ホームのみの構造とはいえ、構内の大体の広さはわかろうものであろうが、そこは猛烈な暑さにどっかの回路がやられていたと想われる。退院後の一番の注意点が「簡単に脱水症状を起こすので、無理な運動とこまめな水分補給に気を付けること」であったことを考えると、今思えばずいぶん無茶をしたものである。
 旧折戸駅、現在は歩道に沿って縦に長い公園に。公園に植えられた樹木と、右手海沿いに見えるアリーナと申し訳程度に残された材木場が目印。というより「折戸駅跡」としっかり書いてある。公園内海側、フェンスで仕切られているが、かつてはもっと広大に広がっていたであろう材木場が、貨物メインだったローカル線跡の名残といえば名残だろう。その場所にどんなタイミングで材木が積まれていくのか知識がないが、今でもある程度の広さの材木場に、ぽつんぽつんと積まれた材木、衰退産業としての面目躍如というところか。完全な偏見であるが、そのような想像を起こさずにはいられない、これもまた好ましき風景である。
 折戸駅跡をしばらく歩く。ここから終点三保駅跡まで遊歩道としてはもっとも整備された作りになる。海と港が見える辺りまで一部路盤の跡が残る。遊歩道ではなくそこに沿って走る道路を歩けば、往事の景色を容易に想像できる。やがて遊歩道は住宅地に入っていき、他の道路からほとんど望めなくなる。美保駅に近づくほどに遊歩道ギリギリまで住居が迫り、また道に沿って植えられた樹木が多く陰を注すようになり、快適に歩けるようにはなる。その反面、配線跡としての痕跡はほとんど認められなくなり、まるで路地裏の暗渠に沿って歩いているような気分になる。定期的に現れる「三保駅まで〜㌔」の標識が配線跡としての矜持(?)を辛うじて保っているというところか。かつてここらはどのような車窓が望めたのであろうか? 終点まで、住宅・学校・工場等多い。貨物路線として成り立たなくとも生活路線として十分成り立ったのではないかとの疑問も浮かぶ。これは「部外者」としてではなく冷静な判断として。清水から三保、たったこれだけの距離でめまぐるしく車窓が変化する。一度、眺めてみたかった。いろんな意味でもったいない。