その七 さいたま市西区飯田 足立神社境内『十二ヶ所神社』

 大きな神社は大きな神社なりの楽しみがある。参拝客の多さがそのまま霊験の灼かさに繋がるとは思えないが、多くの人で賑わい、少し見えにくい神霊の御利益よりも或いはドロドロに渦巻いているようにさえ見える「周縁」の世俗的意味合いの強い御利益を見ているのもまた楽しい。ほとんどの神社はこうした理由で広がったのだから。
 ただ、あまりに人出の多い神社となると、その人々を掻き分けて、どっか建物の脇で背伸びして、手を伸ばして、指の先でもって千社札を貼り付ける行為はなかなか勇気がいる。今のところ、大きい神社へのお参りを避けているのは避けているのはその理由によるところが大きい。
 この足立神社はさほど大きい神社ではない。「延喜式」に足立郡内足立神社との記載が残り、この神社まさにその神社であるなら、古さで言うなら由緒正しき神社と言えようが、市内に足立神社と呼ばれる神社はいくつも存在し、そのどれもが延喜式に記された神社であることを主張してその正否に定説を得ない。元々この神社、「氷川」と呼ばれていたものを、「足立」と改称したとのこと、その理由は、新たに「足立神」なる神を発見したというわけでなく、郡の呼称と当時この地を支配していた豪族「足立氏」にちなんだものであるらしい。恐らくはその勢力拡張と共に足立神社も各地に広がり、後にその勢力の後退、やがて滅亡するに至り、強力な世俗勢力の後ろ盾を失った後、その総本社の伝承さえ失われ、純粋に、その地に営みを持つ人々に多くの恩恵を与えることで今に伝えられることとなった、この神社はそんな経歴を辿ったのではなかろうか。あるいは東の氷川神社に並ぶ勢力を持ち得たかもしれない各地の足立神社の総本社としてのこの神社、正直、私にとってそんなことはどうでも良く、どのような形であれ「今」人々愛されていることこそ、より味わい深い神社としての魅力を高めている。
 今回、「本社」の足立神社本殿に千社札を奉納せず、「摂社」に当たる十二ヶ所神社に奉納した理由、「ひねくれ」半分「神名に萌え」半分てところでしょうか。どうも、明治に入り、全国の神社を国が管理するということになった際、この近辺の神社を整理して、この場所に集めて奉ったのがこの十二ヶ所神社の由来らしい。この小さいお社に何体もの神様がひしめいている・・・。神様自身は大変な不便を強いられておられるかもしれないモノの、想像すると面白い。御由緒の書かれた看板に記された神名、実に多彩。その中に、なぜか「天之御中主」。どのような御由緒をもってこのような東国の果ての地においでになられたのでしょうか・・・。このような小さな神社に記紀ウルトラマンキングが住まわっておられる・・・。
 けど、千社札は住まわっておられる全ての神様のために。