その十三 流山市中 「旧長福寺 愛染堂」

sans-tetes2008-02-28

 この場に鎮する強面の明王としては、突然にして森を開き目の前に現れた高架の線路、まさしく青天の霹靂であろう。それにつられて周りは宅地造成の準備中。廃寺跡に、愛染明王六地蔵、大師堂、古くからのお墓、地元の人々が荒れるに忍びなく改めて整理し、祭りを行い現在の姿となると記載あり。いつの間にやら辺りは開け、明るい日差しがお堂を照らす。時たま静かに通過する列車。今のこの場所で野生の雉が現れたこと、見慣れぬせいもあってか、奇跡と思わざるを得ない。
 この場にあるお堂ことごとくに「武生」の札。そのいずれもが異なるお札。中でも愛染堂に貼られたお札は一際立派。それを横目にお参りすると、何とお堂の鍵が壊れている。観音開きの向こう側、お堂の中の明王像、外からお姿を窺えない。金剛の有情はいかなお姿にて衆生をお救いあるか、私の行動は決して仏を冒涜するモノではない。お顔を拝見の際、もちろん入口近くにお供えしてある(?)ビール缶は跨がず避ける。何故ビールか?
 真っ赤な半身、お顔は思ったよりふくよかでお優しい。「金剛の髭ある」とはいかずとも「金剛の有情」でもって衆生を救済したまうに尤もなお顔。両の腕はそれぞれ印を結び手に持つ法具で救済の武器と為す。天弓はお持ちにならず、より衆生に近づきて衆生を救うの表れか。ただ、手入れが行き届かず、全体煤けてくすんでいるのが残念。廃寺となって後までこのようなお姿を拝見できること自体奇跡。尤も私がこうやって密かに、後ろめたさの快感にほくそ笑みながらこうやってお姿を拝めることこそここが廃寺になっての効用と言えようか。
 これ以上の痛みを避けるため、もう一度拝んで静かに扉を閉める。色彩のある明王がお隠れになって、自然光しか入ってこない堂内の、随分感じる薄暗さに、これもまた心地よさ。もっと良い季節だと必ずや、ここに留まり、帰ってこれなくなる、ような気がする。折角なので千社札は堂内にはらせていただきます。常に心地よいこの場所の千社札を通して、少しでも心地よさが私に伝わればいいな。