『どこに行くの?』

 新作に、全作と同様「異形の愛」を描かなければいけなかったこは、松井良彦監督の人知れぬプレッシャーなのだろうか。この監督の人柄はよう知らんけど。
 半ば伝説と化した前作『追悼のざわめき』と比べるてこの作品を語ること自体がナンセンスなのかもしれないが、容易に比べてしまう、或いは比べざるを得ない流れの映画をもう一度作ってしまうこと、このことは真意定かならぬ自作に対して好き勝手に騒ぎ立てる世間への強烈な皮肉なのだろうか、はたまた自らが自らに課した呪縛への抵抗なのか。
 更に言えば、私にとって、この映画が「異形の愛」たる根幹を為す主人公とそのヒロインの持つ「性的倒錯」について、「この程度の倒錯など、倒錯とは呼べない」。22年前松井監督が描いた凄まじいまでの倒錯と狂おしいまでの純愛、この映画の流れがその系譜に上に立つとすると、22年の間異常な早さで進んだ世の退廃〜或いは「私個人の考え方のリベラル化」〜は確実に松井監督を追い越して行き、結果この映画の設定に対して何ら違和感を抱くことなく見ることができてしまう私がいる。
 だから、この映画が物語る異形さが半減されてしまった分、若しくは期待外れに終わった分、その異形さが放つこの上ない美しさを感じることが出来なかった。それこそが紛れもなく、『追悼のざわめき』に於いて私がかけられた呪縛であろう。この呪縛を解くために、私は恐らく今後もこの監督の作品を観続けることになる。