拾遺 ある宗教者の言葉より
こと宗教において、蒙昧にしていい加減、確固たる信念を持たない日本に生まれたことで、ブログのネタになるようなのほほんとした巡礼のどーでもよい記事を自由に書くことができる。胸を張って「純然たる信仰心」とはおこがましくてとても言えたモンでもないが、その巡礼の動機の何分の一かに、純粋な信仰心のほんのカケラのようなモノがあること、否定はしない。どのような形にせよ、ある種の宗教的遺物を、何の後ろ指差されることなく(時と場合により必ずしもそうとは言えないが)参拝ができることに実は強く感謝しなければならない。
海の向こうに、そんなささやかな日々の祈りさえ抑圧の対象とされている人々がいる。塞がれた口より言葉を発することもできず、縛られた手足はもがくこともできず、遂には信仰心という心まで踏みにじられている。彼らは私なんかよりずっと強い信仰心を持ち、常に信仰を心の拠り所とし、ただ日々の平穏な営みを願う。そんな人々が、その願いを祈りに託すことさえ許されない。そのことがどんなに苦しいことなのか、私には想像する事は難しい。想像する事は難しくても判断することはできる。「それは正常な状態ではない」こと、「それが正しい行いではない」こと。そしてここに、隠蔽された悲しき事実に対して小さき声を挙げることができる。
腐り切っているとばかりに思っていた檀家仏教の中に、このように声を挙げることのできる気骨の士がいること、彼が語る「一宗教家としての信念」、人として、非常に好ましく思います。
巡礼してると、人として時たま何か思うことあり、たまにはこんな記事でも。
大樹玄承師の口述筆記はhttp://blog.livedoor.jp/mrkc7/archives/51100373.htmlより引用させていただきました。