拾遺 ある宗教者の言葉より

 「いま私たち日本の仏教者の真価が問われています。チベットでの中国の武力行動によって、宗教の自由が失われる事に、心から悲しみと止むに止まれぬ抗議を表明せずにはいられません。私たちはあくまでも宗教者、仏教者として僧侶をはじめとするチベット人の苦しみをもはや黙って見過ごす事ができません。チベット仏教の宗教的伝統をチベット人の自由な意思で守ると言う事が大切な基本です。皆さんは日本の全国のお坊さんがどうしているのかとお思いでしょう。日本の各宗派、教団は日中国交回復の後、中国各地でご縁のある寺院の復興に力を注いできました。私も中国の寺院の復興に携わりました。しかし、中国の寺院との交流は全て北京(政府)を通さずにはできません。ほとんど自由が無かった。これからもそうだと全国のほとんどの僧侶は知っています。そして日本の仏教教団がダライ・ラマ法王と交流する事を北京(政府)は不快に思う事も知られています。あくまでも、宗教の自由の問題こそ重大であると私は考えています。しかし、チベットの事件以来、3週間以上が過ぎてなお、日本の仏教界に目立った動きは見られません。中国仏教界が大切な友人であるなら、どうして何も言わない。しないで良いのでしょうか?ダライ・ラマ法王を中心に仏教国としての歴史を重ねてきたチベットが今、亡くなろうとしています。私たちは宗教者、仏教者として草の根から声をあげていかなければなりません。しかし、私の所属する宗派が中国の仏教会関係者から抗議を受けて、私はお叱りを受ける可能性が高いし、このように申し上げるのは私たちと行動を共にしましょうという事ではないのです。それぞれのご住職、壇信徒の皆さんがこれをきっかけに自ら考えていただきたいのです。オリンピックに合わせて中国の交流のある寺院に参拝予定の僧侶もいらっしゃるでしょう。この情勢の中、中国でどんなお話をされるのでしょう。もしも宗教者として毅然とした態度で臨めないのならば私たちはこれから、信者さん檀家さんにどのような事を説いて行けるのでしょう。私たちにとってこれが宗教者、仏教者であるための最後の機会かも知れません。書寫山圓教寺執事長大樹玄承 平成20年4月5日」







 こと宗教において、蒙昧にしていい加減、確固たる信念を持たない日本に生まれたことで、ブログのネタになるようなのほほんとした巡礼のどーでもよい記事を自由に書くことができる。胸を張って「純然たる信仰心」とはおこがましくてとても言えたモンでもないが、その巡礼の動機の何分の一かに、純粋な信仰心のほんのカケラのようなモノがあること、否定はしない。どのような形にせよ、ある種の宗教的遺物を、何の後ろ指差されることなく(時と場合により必ずしもそうとは言えないが)参拝ができることに実は強く感謝しなければならない。
 海の向こうに、そんなささやかな日々の祈りさえ抑圧の対象とされている人々がいる。塞がれた口より言葉を発することもできず、縛られた手足はもがくこともできず、遂には信仰心という心まで踏みにじられている。彼らは私なんかよりずっと強い信仰心を持ち、常に信仰を心の拠り所とし、ただ日々の平穏な営みを願う。そんな人々が、その願いを祈りに託すことさえ許されない。そのことがどんなに苦しいことなのか、私には想像する事は難しい。想像する事は難しくても判断することはできる。「それは正常な状態ではない」こと、「それが正しい行いではない」こと。そしてここに、隠蔽された悲しき事実に対して小さき声を挙げることができる。
 腐り切っているとばかりに思っていた檀家仏教の中に、このように声を挙げることのできる気骨の士がいること、彼が語る「一宗教家としての信念」、人として、非常に好ましく思います。

 巡礼してると、人として時たま何か思うことあり、たまにはこんな記事でも。

 大樹玄承師の口述筆記はhttp://blog.livedoor.jp/mrkc7/archives/51100373.htmlより引用させていただきました。