『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』

 「彼の名が本当に『ダーガー』という発音でよいのか誰も知らない」ことから物語は始まる。
 生涯に残された写真はたった三枚。冒頭の煽りは、彼の人生における神秘性を一見強調するようであるが、物語が進むにつれて特にこの彼の人生そのものへの神秘性は語られることは少なくなる。彼が実際に生きている間、彼を、人生を通じて見守る人がいなかったこと、彼自身そんな他者を得ることができなかったこと、その意味で彼の正確な人生を辿ることはできない。解っている限り、彼の人生も他の所謂『アウトサイダー・アート(もしくはアール・ブリュット)』の作者が辿ったと同じように、自らの意に反して用意された過酷な生い立ち、人生を辿ったということ、その結果として「自らを慰める方法」として『非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアンガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコーアンジェリニアン戦争の嵐の物語』を誕生させたこと。
 彼がどのような思いを込めてこの物語を綴ったか、それを語るのは野暮というものだろう。作者の思いと観者の想像、この交錯するところに何を観るかは個々人の感性に。それが無いなら絵画を鑑賞する意味など無い。この映画では、ドキュメンタリーの体裁でダーガー自身の人生を追いながら、一方でこの映画の製作者とダーガーの思いの交錯の表現としての性格を有している。オリジナルのダーガーの作品の色彩、雰囲気、そして異様さを損ねない範囲で制作者が表現する制作者の想像上の思いは初めはぎこちなく、やがて大手を振って動き、踊り、騒ぎ立て、そしてダーガーの人生とリンクする。私は人の考えを素直に受け入れるほど素直な人間ではなく、特にある感性に対して一方的な解釈を押しつけられることを極度に嫌う。映画という表現上、この作品の中で表現される制作者のダーガーへの思いは、時に私に違和感を抱かせる。が、私には想像外の解釈と動きを与えられたダーガーの分身達に、望外に心を奪われた瞬間もあったことも確か。悔しいことに。悔し紛れに考える。映画の製作者は「ダーガーの人生を追うドキュメンタリー」と「作品を語るアニメーション」を両立させることで自らをも「第三者の目でダーガーを見る」ことと「自らを作品の中に身を置き遊ぶ」ことに「分裂」させて楽しんでる。映画の中で一時ダーガー、若しくは非現実の世界の住人になった制作者、異様なほどその思いが伝わってきてしまった。