その三十八 群馬県邑楽郡邑楽町大字石打 『浅間大神』

sans-tetes2008-04-08

 国道沿いに、『なんたら観音』の看板が立て掛けてある。かなり安っぽい看板であることと看板の矢印の先に広がるのは全く目の効かない漆黒の闇であることが気になるものの、それはそれでその先にあるであろうお社に非常に興味が湧く。ただしここがバイク移動の悲しいところ、なんか気になるモノを見つけてもほぼ風景中の点と化して身は疾風の如く通り過ぎてしまう。そこで歩み(?)を止め、引き返してこそよいモノと出会う絶好の機会。やや、多少の負担ではあるが、それは、まあ、「バイクに乗る」という宿命を課した時点で予想できたことなので。
 というわけで来た道を引き返してきました「なんたら観音」。よく見ると看板は民家の脇、中庭へ続くような未舗装の道の奥を差して立てかけられている。先に電灯もなく、真っ暗。気が弱くなくともここは躊躇しそうな、そんな闇。この時こそ常に、という訳にはいかずなるべく携帯している極小のマグライトの出番。アメリカンポリスの携帯する武器兼用のそれに比べると非力であること否めないが、それは個人レベルの用途に充分合致した設計、この程度の闇を切り裂くには十分な力を持っている。
 さて、光に当てられた未知の領域、果たしてどんなお社が・・・。まず浮かび上がったのは蔦の絡まる廃車。この荒廃した感に興奮とスリルが・・・。そして次にはプロパンガスに立てかけられたリアカー。なるほど、講中の適切な手入れに霊験を感じる。そして次に映し出されたのは、モンペが干したままの物干し竿、ってこれ思いっきり人ん家の庭じゃねーか。何考えてあんなとこに看板置いてるんだか紛らわしい。不法侵入を疑われる前にその場を脱出。
 さて、気を取り直して辺りを見回すと「石打観音」なるお寺は確かに存在するらしい。件の看板を含めて3カ所、何れも異なる道を「入口」として指す看板・標識・石柱。その石柱の袂に小さなお堂。立派な額に「浅間大神」の文字。ビーズを並べたような字に感じる手作りテイスト。扉に錠は掛けられていないモノの長年開けられた形跡はなく、今では押しても引いても開かない。お堂の中、横側に大きな絵馬が掛けられ、その絵馬になにやら大きな顔。辺り街灯なく、手に持つライトの光だけが頼りの捜索、壁際の絵馬に上手く光を当てることができず、その絵馬が何を表しているのかよくわからない。顔の表情もよくわからない。が、大きなお顔。解らないモノが有する威厳と畏怖、ほんの少しの不気味さは、蜘蛛の巣だらで長く手入れされてないように見えるお堂の雰囲気にも演出される。結構多くの千社札、中には「江戸」の文字。この場所、恐らくは嘗ては街道から向かう観音さんへの表参道、この場所のお堂は必然繁盛していたのであろう。その後新たに別の道が出来たためこの参道は寂れ、お堂も共に、今ではこのように。
 毎度の事ながら、このようにたまに参る物好きを当の神さんはどのように? 地元の方々、せっかくですからたまにはお手入れしてあげて下さいね。額の文字が可愛いですよ。