『泥の河』

 あんま本を読まない私が、珍しく原作を知っている作品。
 映画はほぼ原作に忠実。ということは、あの名作を始めて読んだときの感動をそのままもう一度味わうことができる。「原作に忠実にもかかわらず」と言うべきか。
 舞台は昭和31年。安治川の川岸で両親が食堂(「うどん屋」の方がしっくりくるね)を営む少年一家と、川を挟んで対岸にある日現れた屋敷船(そこは一家が住む生活の場所であると同時に生活のため母親が春を鬻ぐ「廓船」)に住む少年との交流のお話。「もはや戦後ではない」と謳われ、空前の好景気に沸くこの当時、世相に必死にしがみつきその恩恵を受ける者、しがみつく手をふりほどかれて恩恵を得られぬ者。ここに描かれた「栄光の昭和」は決して優しいばかりでなく、握力のない人々を容赦なく振り落とす。辛うじて、その尻尾を掴み、得られるだけの幸福を享受しながらも、その今に至る自らの業を常に見つめ、時に人生を逡巡し、にもかかわらずこれからの人生がある子供達に対しては常に優しい視線で見守る田村高廣(うどん屋のオヤジ、主人公の父親)が凄く素晴らしい。「こっこは〜おくにをなぁ〜んびゃっくりぃ〜♪」純真な子供の軍歌を唱する歌声が、途方もなく悲しく美しい理由。
 本来なら純真で、本来なら未来ある子供達に、なるべく見せまいとする世の矛盾。いくら両手で子供達の目を覆っても、覆った指の隙間からぽろぽろ零れ出て目に触れる事柄、子供達にとってそれは結果的に学校で学ばない大人になるための貴重な勉強になる。一足先にちょっとだけ大人になってる屋敷船の姉弟うどん屋一家との触れ合いの中、子供と大人と、その表情を行ったり来たりさせる姉弟の演技がスゴイ。その究極が有名な「蟹に火を付ける」シーン、火を灯されのたうち回る蟹の妖しき美しさに引き込まれる少年、純真な子供からは歪んでいるように見える大人の世界がここにあり、それに一瞬魅了され、誘われてその先に見た真の大人の世界。夜の闇の中、光と闇の狭間に立ち揺れ動く主人公、結果最後に理解する自分と、姉弟との立っている位置の途方もない隔たり、ほぼ子供達だけで表現されたこのシーン、反則的に巧い。
 この当時、道路はほとんど舗装されず、どこもぬかるみだらけだったんですよ。