『第3回ガンダーラ映画祭スペシャル』於Asagaya/Loft A

 阿佐ヶ谷結構近し。ああ、封印していたロフト通いが復活しそう・・・。
 「ガンダーラ映画祭」という「この世の理想郷を探す」というコンセプトの元で制作された映画を発表する映画祭の中から3作を選んで上映、更にそれぞれの作品に深くかかわったゲストを呼んでコメントを求めるというイベント。映画祭の顧問が森達也氏でこういったコンセプトでの映画祭であるから、諸処の社会問題を訴える内容の映画が多いのか、上映された3作とも思いテーマを扱いながらも何らかの希望を見出そうとする制作者の意図を強く感じる。
 まずは『アイムボカン〜地雷撤去という超セレブな夢』。社会奉仕に勤しむセレブにあこがれ「夢はカンボジアで地雷撤去」というギャルが仲間達と共に作成しオークションにかけた「アート作品」の売り上げを地雷被害にあった人々の義足購入の資金とするお話。「社会奉仕」という「セレブの生業」をあまり穿った見方をせずに素直に憧れることのできる今風の女の子、で、彼女が取った行動がこうなっちゃったんだからそれはそれでたいしたモンだと思う。その一方、「世界一有名な地雷埋設国」カンボジアにおける「地雷利権」すなわち「地雷撤去を目的とした各国からの援助」を重要な資金源とするあまり「却って地雷撤去が進まない」というとんでもない矛盾、人権擁護の名の下で利権に群がりあろう事か現地住民を虐待する各国NGO「屋」など、内線終わって10年、未だろくでもないこの国の内幕を紹介、それでも前向きに(或いはノーテンキに)将来を見つめる人々の言葉が胸に響く。
 2作目『人間爆発』。監督は花くまゆうさく表現者たらんとしてくすぶり続けるする全ての人々が陥るであろう悲哀を描く。40歳になるまでくすぶり続けた挙げ句、宇宙からの電波に従い自爆してしまう中年と、そうなるまいとしながら自分を特別視し、にもかかわらず未だ何ら為し得ていないもう中年の30歳を対比しながら、花くま先生自身が強く感じる将来に対する大悲観を語る。作品を創る上で実は隠れたキーワードがショーケンだったとか、先生、自身での解説おもしろく語っていたが、作中でも現実でもとにかくその将来に対する絶望が全開で救い無し。
 最後は『日本イスラーム化計画』。アイデンティティーを失い都市に逡巡するフリーターの若い女性が行き着いたのは、アパートと職場との行き帰りに強烈な印象を与えてそびえ立ち、なおかつ「日本的」と言う言葉の入る隙微塵も与えない、イスラームのモスクのドームであった。最後のほうに鈴木邦男さんが登場して、現在の若者における「やたら肩肘張って却って窮屈に感じるアイデンティティー」を窘めている。
 最後のゲストとしてその鈴木邦男さんが壇上に登場。アイデンティティークライシスの話題と言うことで先頃起きた秋葉原連続殺傷事件についてその時たまたま現地にいた青年達も交えてトーク。鈴木さんの立場から、「デモ」等の大衆運動が廃れた現在、アイデンティティーを失った人々の不満のはけ口としての機能が全く失われ、絶望のはけ口があのような極端な行動となると論じていた。本日森達也さんも実は誘っていたらしいが都合により欠席とのことで、もし出席が叶っていたらエンドレスでとんでもない議論に発展していたはずで、正直惜しい。私はちょっと考えが違うというか世代の差なのか、ここ最近絶望のはけ口として機能していたのは各種の娯楽であって、格差によって娯楽による享楽を享受出来ない人々が増えたことが原因か、或いは大衆全体の退廃化が概存の娯楽としての価値を貶めていることが原因ではけ口としての機能を果たせず、あんなこととかこんなこととかになったんではないかと思う。恐らくはプロ市民による煽動に簡単に乗せられてしまって久々に発生した西成の暴動も、根本的原因は、何らかの理由で連中に十分な量のシャブが行き渡らなかったのが原因じゃないかと思っている。みんな、何か不満があればとりあえず国家権力に刃向かおうぜ。今の日本がクソなのは間違いなくあいつらのせいだし。刃向かうのは、当然常識の範囲を越えないように。