『真田風雲緑』

 リアリズムを出来るだけ大事にして造られたと思しき時代劇の場合、見逃しても良いくらい細かい作中の錯誤が妙に気になって興醒めしてしまうのは私の悪いクセである。その点初めからほとんど考慮されていない本作は初めから安心して楽しめた。これが「娯楽映画」の醍醐味というものでしょうか?娯楽映画の定義は知りませんが。
 物語は、関ヶ原の戦い後の戦場において、後に真田十勇士となる戦災孤児達の出会いから始まる。十数年後再び起こった徳川・豊臣の戦において彼らは再会、豊臣方に付いた真田幸村(千秋実)の「カッコ良く死にてえ」との言葉に賛同、その配下として縦横無尽の活躍をするものの、豊臣家の安泰のため十勇士初めとする城内の浪人を捨て石としまともに戦をしようとしない老臣達、立場的にはその老臣達とは近い立場にいながらも実際は何を考えているのか解らない豊臣家執権の大野修理亮(佐藤慶)の存在等戦いを巡って一筋縄ではいかない権謀術数が渦巻く中十勇士達は思ったように戦うことが出来ずに・・・。
 主人公の十勇士の筆頭である佐助(中村錦之助)、トンデモな理由*1で超能力*2を持つため、幼い頃から他者に疎まれそれを自身も感じて孤独癖を持ち、一方いいざ戦闘になるとにその能力をフルに活用して縦横無尽の働きを見せる。そんな彼に惹かれるお霧(渡辺美佐子)他、自身を疎外せず仲間と認めてくれた十勇士の面々、彼らを率いる真田幸村と強い絆で結ばれるが、その絆は「戦国の世に生まれ損ない太平の世に生きられない食い詰め者が、最後の大戦で華々しく死にたい」という非常に危うい思想の元に成り立っている。殺し合いという戦の本性を知らぬ者、若さに任せその本性を知らずして戦いに身を投じる者、映画は徹頭徹尾娯楽性を帯び凄惨な殺し合いのシーンも真田隊の超人的な活躍とそれをミュージカル仕立てにする事で悲壮感を上手く覆い隠しているが*3この見かけ重視のファッションのような戦いの描写に、当時世間に吹き荒れた「若者の反乱」ともいうべき学生運動を意識しているように見える。そして、それに対してこの映画が用意した答えを、一番に「格好良く死にたい」として十勇士を率いた(そそのかした)真田幸村のこれ以上ない間抜けな死*4という残酷な形で用意、強烈なアンチテーゼとしている。当然の事ながら主人公の佐助、彼がその思想に惹かれる限り、彼の願いは彼が初めて得た仲間達と共に永遠に奪われることとなる。要は生き死にに格好良いもクソもないのだ。
 かく言う無駄な深読みは、この作品の時代劇というには考証あまりにも無視しすぎている、歴史オタクからのアンチテーゼで、こんな無駄な考えでもしてなきゃやってられない。由利鎌ノ助役のミッキー・カーティスが江戸時代なのに何の抵抗もなくギター弾いて歌ってたり、豊臣秀頼が会議ほったらかしで綾取りやってたり、その綾取りの相手をする千姫がやたら軽くて扇子持ってお立ち台で踊っていたり等々、あれ?とか考える暇なく、観てるだけで実は面白い、実に面白い。だから私は自信を持って言おう。格好良く映画を語ろうなんて、陳腐なことこの上ない。

*1:幼い頃生家に隕石が落下、両親は死んで自身は助かり隕石から出る放射線を浴びたことで

*2:人の心を読む、念力で同時に大勢の人を気絶させる、音楽に合わせて幻覚を見せる等・・・発動すると錦之助の目が青く光る! で、「鏡に弱い」

*3:とはいっても敵兵士一団を催眠術にかけて踊りながら入水自殺させたりとか、よく見ると結構アレなことやってる

*4:死に場所を探して複数の敵兵に戦いを挑むが、自身が真田幸村と信じてもらえず相手にされず、挙げ句死体につまずいた拍子に地面に刺さった槍に貫かれ、自ら「カッコ悪!」と絶句