『死刑執行人もまた死す(完全版)』

 第二次世界大戦最中の1942年のこと、既にドイツ第三帝国保護領としてナチス支配下に置かれていたチェコ、その頂点に君臨する総督・ラインハルト・ハイドリヒはその苛烈で冷酷な占領政策から「死刑執行人」と恐れられている。ドイツ人達が「頑固者」として評するチェコ人達の水面下での抵抗が顕著となる中、ハイドリヒ総督は更なる市民達の抑圧を命令する。そのような情勢下、プラハの街角でゲシュタポに追われる男。祖国独立の英雄であるノボトニー教授を父に持つマーシャは、祖国を我が物顔に闊歩する外国人へのチェコ人としての反発という消極的理由から彼がゲシュタポから逃れるのを助ける。その直後、「死刑執行人」ことハイドリヒ総督が狙撃されたとのニュースが入る。ナチス・ドイツに対する反発はあっても、自身と家族の身の安全を第一に思い決して危険な事には関わるつもりのないマーシャの頭に思い浮かぶのは、嘗て革命運動の闘士として名を馳せた父のこと、そして昼間見た男の事・・・。帰宅した父に問うと返ってきたのは「十数年前から政治からは遠ざかっている=事件とは無関係」との父の言と「事件に関することを知っているのなら、例え相手が父親・家族であっても絶対に話してはいけない」という元革命家としての言。外は既に戒厳令が敷かれ、夜間外出の制限の下、早めに帰宅した彼女の婚約者と入れ違いに一家の下に一人の来客。それは昼間のあの男だった。
 ナチス占領下の当時のチェコで実際に起こった暗殺事件、それに対しナチスチェコ国民に行った容赦ない報復行為という戦時下で起きた事実を下敷きにした映画。世間は暗い世相にあるモノの、政治闘争とは無縁の一市民にすぎない若い女性、事件をきっかけに事件と彼女は共犯者として、また(ナチスの報復の一環として家族が人質に取られるという)戦争犯罪の被害者として二重に関わることとなり、また追う立場にあるゲシュタポからは重要参考人として追われる側の一人として、それら劇的に変化する生活環境の中で自覚する被占領民としてのチェコ人としての立場、ごく平凡な一女性過ぎなかった彼女を巡って何重にも繰り広げられる思惑の数々をサスペンス調の進行をもって、やがて暗殺事件は完全犯罪へと導かれていく*1。題名「死刑執行人『達』」とは、作中でも述べられている通り、ナチス・ドイツチェコ総督*2まず、ハイドリヒを指す。映画における彼の初登場シーン、その言動は「恐怖・残虐・酷薄」を体現する男の登場として素晴らしく、申し分ない。ところがこのように大仰の登場を仕方をした彼が、暗殺というシーンもなくあっけない退場を遂げることでこの映画の凄さが解る。以降彼に代わって「死刑執行者『達』」の役割りを得るのは彼の配下であるSSの将校・その兵卒、そしてゲシュタポの警部補にその手先であるチェコ人スパイ。表面的な恐ろしさと、下した命令の苛烈さに比して実際の行動としての恐怖を映像に残さなかったハイドリヒに替わり彼の配下達は実に有能に、勤勉に、狡猾にその恐怖を実行してみせる。ここに明らかになる「死刑執行人『達』」の実際の手練・手管の数々、特に、曲がりなりにも警察組織であるところの「警部補」がの半ば全体主義的強引さを除いてもその刑事をしての有能さは際立つ。時と視点を変えれば、彼は名刑事の名に相応しい。その名刑事の手腕が、全体主義の遂行と報復のために使われる・・・。
 「民族を守るという正義」と「個人生活を守るという正義」はしばしば対立する。消極的義侠心から男を助けたこと、「犯人を匿った者は家族と共に死刑」との通達、そしてナチスの報復によって処刑候補として人質に取られ父。虐げられている民族の中のごく普通の一市民が突きつけられた問題、その逡巡の内に改めて自覚するチェコ国内におけるナチスの立場。個人的視野に留まるマーシャにより広範な視野と想像力、そして勇気を与えるのは、皮肉にも肉親を守るという個人的な動機によってである。この勇気を喚起させる、死を目前に迫った獄中で父が彼女に対して*3述べた「遺言」・・・「自由とは戦ってこそ得られるべきもの」「私の名を思い出すときは父としての名ではなく闘争に死んだ者としての名を思い出せ」・・・当時の恐怖の時代を体現するこのセリフは、チャップリンの『独裁者』の最後で床屋が兵士達に向かって述べたセリフと共に、現在でも色褪せない。そして、「兵士」という「不特定多数の民衆」にではなく「家族」というきわめて個人的な対象に向かって述べられたこのセリフには「革命」「闘争」という熱に浮かされた個人が持つ危うさを表しているようにも、今観ると感じる。
 史実での事件では、「ナチスによるチェコ領内での徹底的な報復行為」と、その報復の苛烈さによる「以後ナチスの高官暗殺計画の断念」という単純ではない結果をもたらす。実際の事件でも実在した「密告者」の処遇が映画内では重要なポイントになる。既に民族闘争への自覚に目覚めたマーシャ、彼女の勇気に呼応するかのように「頑固なチェコ人」達はナチスの連中を翻弄していく。チェコ人達の落とし所は「密告者」。「闘争」の言葉ちょっと違和感がある、綿密に練られた計画とそれを巡るナチス、テンポ良く一気に流れるこの鬩ぎ合いのおかげ映画は後半に至るまでダレず、ドキドキしながらの緊張感を保っていられる*4そして、結果訪れた結末にはマーシャならずとも愕然とする、と同時に恐るべき全体主義社会の鉄の規律を垣間見るのである。その皮肉は、最後に流れる「Not The End」のクレジットでフリッツ・ラングは同時代的にまだ結論の出ていない問題として観者にアピールする。確かに、今観ても、違う意味で「決して終わっていない」事実は強調される。現実の中において、この物語が終わりを迎えない限り、確かにこの映画は名作であり続ける。

*1:真犯人がゲシュタポから逃れ果せたという意味で。

*2:史実で正確には「ベーメン・レーメン保護領総督」

*3:彼女の弟に宛てると同時に、メッセンジャーとしての彼女自身にも理解させるつもりで

*4:史実を知っていれば尚更