『チャーリー・チャップリン ライフ・アンド・アート』

 チャーリー・チャップリンの映画、この深みにハマれば誰でも映画好きになる。断言する。「例外はない」。この映画に登場するのは著名人という意味でいずれもマッドな方々だが、そんな彼らが語る「我らがチャーリー」を新作映画ほったらかしにここ新文芸坐に観に来る我々、彼の映画への愛着の大きさは貴様らに決して引けを取らんぞ。
 そのチャーリーの生涯と映画を辿る本作、冒頭配されるシーンは彼の膨大な映画のうち二つのシーン。一つは彼が初めて「放浪紳士」の姿に扮する映画である『ヴェニスの子供自動車競争』。この中で彼(の役)は自動車競争を観に来た人々と競技を撮影しに来たカメラの前に執拗に現れ、競技を観ようとしている人々に排除されながらもなおも人々の前に立とう、カメラに写ろうと、その行動に負けないくらい奇矯な格好(ちょび髭・山高帽、よれよれのジャケットにボロボロのズボン。これにやたらしなやかなステッキを加えれば所謂「チャーリー」のスタイル)で画面の中心に立つ。解説のナレーションはこの映画における彼の行動を彼の人生と性格として説明、「常に目立とう、中心に立とうとした」と評する。一方でもう一つのシーン、『ライムライト』で、老いた芸人「カルベロ」が見る悪夢・・・得意の「ノミの芸」を舞台で披露するカルベロ、ふと客席を見るとそこに観客の姿はなく、ただ空虚に広がる空の客席。ナレーションは、「目立とうとしたと同時に、彼が常に抱き、逃れられずにいた恐怖感」の象徴としてこのシーン紹介する。既に語られる、彼の因果な性格、因果な生涯。
 挑戦的な始まりとは裏腹に、本作に登場する、彼、チャーリー・チャップリンの人生と映画について語る人々は基本的に彼と彼の映画を愛して止まない人々、そして映画史上最も偉大な役者・監督・制作者としてほぼ評価の固まっている彼の人生相応に、おおむね肯定的に語られる*1。今までも、これからも、あちこちで、そして我々自身の中で何百回となく語るであろう各人の各映画評については取り敢えず置いておくが、作品としてあえて強調してもらいたいのはやっぱ『巴里の女性』。各映の、その表現の巧みさ・斬新さを説明するため各印象深い有名なシーンを抽出しする度に、そのシーンだけでなくそれに続くシーンにまで想いを寄せ何回も何回も泣いてしまったことは一応告白。出演するジョニー・デップの言葉通り、「何百回見ても面白い」。そのデップが「マネしようとしてなかなか出来なかった」『黄金狂時代』の「パンのステップ」のシーン、を執拗に解説、分析するシーンには愛情と共に偏執を感じて、なんかデップらしい(?)。『ジプシー・キャラバン』の時もそうだったけど、ドキュメンタリー映画にデップが出てコメントすると何故か胡散臭い気分になる、どうでも良いけど。
 彼の、只「映画に関わる人」としての人生を世間が許さなかったのは有名な話で、そのせいか否かは別として、『ライムライト』における年老いた(実物の)チャップリンの「コメディアンとしての才能」を「既に枯れている」と語るナレーションの言葉は辛辣そうに見えるが、短編時代から合わせてここまで「彼の才能」を見せつけられた観者は確かにそう感じてしまう。『ライムライト』を、監督・主演であるチャーリー・チャップリンの人生の投影として、その中で「相応しい人生」を彼が演じているのは諸人の意識することである。ドキュメンタリーという本作の中では、この映画の諸処のシーンを抽出しながら解説する。漠然と「老芸人の悲哀」を感じる以上により強く「演者・作者の人生」を意識することでこの作品がより魅力的な輝きを放つことは間違いない。このドキュメンタリーにおいてもその魅力を増幅させるための解説は詳しく語られる。が、それにも増してそれらを凌駕するほどの衝撃を与えるエピソードを、『ライムライト』におけるとてつもない裏話を聞かせてくれる。『ライムライト』ではラスト、カメラは舞台の袖の長椅子で死にゆくチャップリンを遠ざかり、舞台でバレーを舞うクレア・ブルームの姿を映しながら幕を閉じる。その時、直前まで「カルベロの相棒」として舞台で競演し(同時にチャップリンの芸を喰っていた)、死にゆくカルベロのすぐ後ろで他の人々共に彼を見つめるバスター・キートンが一言、「君は今でも中心にいるよ*2」。喜劇王喜劇王にかけた最大のはなむけに「スゴイ!」と感動すると同時に、「またしてもキートンチャップリンの魅せ場でチャップリンを喰った!」となんだか可笑しくなった*3
 キートンとの比較については、晩年の様子を語るジェラルディン・チャップリンの話の中にも出てきてこれも可笑しい。他に晩年のチャップリンの様子を映す映像の数々、多くがプライベートなホームビデオに関わらず、家族を楽しますため義務の如く若い頃のギャグを見せているのが楽しい。引退後の晩年については解説も概ね好意的になのでまあ感動はするけど、ここまでに散々泣いてしまったのでここでは泣かない。泣かないけど、何回でも泣くためにまた何度もチャーリー・チャップリンの映画を観たくなってしまうのは、当然といえば当然の感想でございます。

*1:もっとも、映画それぞれの好みにはばらつきがあったが。ウディ・アレンは『街の灯』は評価して『モダンタイムス』はそれほど評価しないとか

*2:セリフではなく、おそらくキートン自身がチャップリンに対してかけた言葉。次に上映された『ライムライト』でこのシーンを注意深く観察したがシーンの中でキートンが言葉をかけている様子は確認できなかった

*3:つまり、同時にキートンが持つ底知れ無い魅力を伺い知ることが出来るんですね