『素朴美の系譜 江戸から大正・昭和へ』於松濤美術館

 目的は大好きな谷中安規*1を観たくて。他に仙?等もあるようだし。しかし、「素朴」って失礼な言葉でねぇかい? まあ、タイトルにこの題を付けたのはあえて奇をてらったのでしょう。

 で、展示作品。直接展示されている地下階に行けばよいモノの、何にも展示してない1階を無意味に散策。すると、地下階を渡す形で設けられた廊下から、巨大な達磨図が二幅、白隠作と東嶺作、いずれもギョロ眼のユーモラスな異相、眼ぇひんむいて互いに睨めっこしている様子に見えいきなり和む。私のようなひねくれ者も偶には恩恵を預かる、或いはこれが深遠たる禅画の意味するところなのか? 当然、名僧2名の描く禅の境地を労せず得るほど私はエラくはない。

 「花の下より鼻の下」・・・やはり仙涯。彼に限らず、禅画は良い。名僧の禅画を複数拝見できただけでも私にとっては豊作。豊作といえば、ここで新たに得た画家名2人、長谷川利行と横井弘三。寡聞をはいえ、恥ずかしながら、こんなスゴイ絵を描く画家を知らなかったのは恥ずかしい。まず長谷川利行、その描き方のスタイルとしては「風狂」といったところか。恐ろしく速筆だったというその筆で描かれた「カフェの入り口」。描き殴るような筆遣いとは裏腹に、恐ろしく的確。この乱雑この上なく、にもかかわらず異様な的確さにゾッとするほどの悪寒と快感を感ずる。続く「新宿風景」「浦安風景」と二つの風景画、「新宿風景」も同様の印象、やはり「ソソる」。 風景画の後に続く人物画、「赤い少女」もこれまたこれまた「どぎつい」がなによりも先行していて、にもかかわらず少女らしさという印象に一遍の曇りもないこの絵画、またもや(描かれた少女にではなく作者である長谷川利行に)ゾッとしてしまった。これから要チェック。

 次に横井弘三。最初に現れた絵の題名が「自動車とお相撲さん」。解説では「子供向け」「童心」を強調していたが、そのシチュエーションの妄想臭さが一瞬精神病患者の作品の印象を受ける。続く「のぞきめがね」でこの疑問が決定的、と思いきや続く子供達や(子供を含んだ)家族を題材とした一連の作品より感じる物凄く優しい作者の視線。確かにこの作者は子供を見る目に特別な優しさを宿すことが出来る、それだからこそあのように「子供だから(精神病質者ではなく)許される」に近い絵が描けるのだな、と納得する。が、彼の眼差しはそんなに単純ではない。続く作品(本の装丁・挿し絵)より十分すぎるほど「奇矯さ」を感じて、その奇矯な絵柄もさることながら、この作者の奥の深さに惹かれる。それにしても、谷中安規もそうなのだがこの時代、明らかに奇矯すぎてともすれば文章を喰いかねない挿し絵が平気で描かれるが、文章書く文士の方はなんて心が広いんだろうと思ったりする*2

 岸田劉生熊谷守一川上澄生等を経て富岡鉄斎が登場。北宋司馬光のエピソードを描いた「温公破甕図」、甕の中から出てきた司馬光のお友達、今まで溺れてた割にはなんだかすごく元気そうなのとデフォルメ化されたカメの破片が妙に可笑しくてウケる。

 でいよいよ谷中安規。画中に意図すること自身全く語らず、性格には余人にその意図を理解することが出来ない谷中安規の版画はそれだけで常に謎の固まり。ならば、そこにあって眺めているだけでよい。眺めているうちに、その絵に引き込まれ出られなくなりそうな、ありきたりの感想が私の中でこれ程似合う画家はいない。そして、その絵の中に閉じこめられれば、その意図するところの解るまで永遠に苦しむ。絵の外にいる限り、その永遠の苦しみは永遠の楽しみとなりこの上ない絵画の魅力になる。彼、谷中安規の持つ魅力を代表するような「蝶を吐く人」の前で、今まで数え切れない程感じているにもかかわらず今日も物凄いショックを受け、今日もその絵の前から離れるのに苦労した難渋した。

*1:なんとWikipediaには「谷中安規」の項目がない!そんなにマイナーか?

*2:谷中安規の挿し絵に作品を「喰われた」内田百間は面白がってたそうな。さすが。