『チェチェンへ アレクサンドラの旅』

 神はバベルの塔を破壊すると共に、人間達に異なる言語を与え、人間達が再び習合して天に迫ることの無いように混乱を与えた。

 アレクサンドル・スフーロフは静かに語る、いつものように。
 チェチェン国内にあるロシア軍駐屯地へ向かう軍用列車。武装した兵士達と少し距離を置いて、明らかにこの場に場違いな一人の老婆が座る。目的地は、兵士達と同じく、チェチェン内にあるロシア軍駐屯地。この地に派兵され軍人として任務に勤しむ孫の招きによりこの地に降り立った老婆は、同じく同様に年老いた祖母を持つであろう孫と同世代の兵士達のマスコットの如き存在となる。駐屯地内、何処に行っても尊敬と歓待を受ける、好奇心旺盛な彼女の足は自然駐屯地のゲートの外に向かう。
 ここ、少なくともロシア人が大勢を占める駐屯地内と駐屯地から少し離れたカフカス人の住む町は同様にロシア語という同一の言語によって意志の疎通が可能である。ロシア人の老婆、それと彼女が町で出会ったカフカス人の老婆。同じ世代、同じ言葉。互いが持つ共通項を待つ2人は、戦地の臭いが色濃いこの地で、少しでも共通項が違えば彼女もまた憎悪の対象となりかねない、そんな景色と空気が広がるこの地で交流を広げる。ロシア人の彼女、アレクサンドラがここに来た目的は何なのか? それは、遠く故郷を離れてこの地に駐屯するロシア軍の兵卒達にも言えることである。ただ、少なくとも言えることはここに来た彼女とロシア軍の目的は恐らく異なるであろうということ。そして、その部分を共有できない彼女と軍人・・・その代表者としてこの映画では彼女に「一番近い」はずの彼女の愛しい孫を当てる事、とてつもなく残酷に見えてスフーロフ特有の全体を締めさせ利静けさによってその残酷さは感じさせない・・・はたとえ「言葉」「肉親」という共通項を持ってしても、根本で相通じない。「言葉が通じる」という神が恐れた最大の武器はここでは何ら効力を発揮しない。一方で、互いの疑問を解決させず、疑問のままで終わらすことが出来るのは、老婆と軍人が肉親にあるからに他ならない。
 例の如く、スフーロフは作中での悲劇に対して何の解決策も与えない。与えないままに彼女、アレクサンドラはこの地を去っていく。最愛の孫とは、彼女が列車に乗る少し前に、軍務に赴く彼を見送る形で、彼が再び帰ってくること期する形で、別れを遂げている。そんな彼女を見送るのは町で出会ったカフカス人の老婆である。別れの言葉は互いに通じるロシア語である。列車に乗り込むアレクサンドラ、やがて列車は走り出し少しずつその場を離れる。その時、カフカス人の老婆は列車が見えなくなるまで見送ることはしない。かといってその場を立ち去るわけではなく、列車の進行方向に背を向けて、うつむき加減でその場に立つ。アレクサンドラが孫とは相容れなかった部分で共通項見いだしたかに見えたカフカス人の老婆もまた、別の部分で思うことがあるのだろうか。この場合「言葉が通じる」という事実が大変残酷なように私には思えた。一方で、「理解できないこと」がそんなに重要な事実なのか、との思いももって、この映画は幕を閉じる。