『機動警察パトレイバー2 the Movie』

 友人に誘われた新文芸座のオールナイトで。各作品についてはかなりハードなファンである同行の友人から内容に触れない程度のレクチャーを事前に。お陰でより楽しく観ることができました。

 「横浜ベイブリッジを破壊する」そんなテロ予告が政府に送られ実際に橋には一台の不審車が置かれている。政府はベイブリッジを封鎖し、現地にパトレイバー部隊を派遣する。警視庁特車二課長の南雲しのぶ警部の活躍により人型兵器パトレイバーは現在では警察内でも治安維持・暴徒鎮圧・特殊工作等の任務に多く活躍するようになっている。しかし、現地の不審車を調べる前に橋は爆破、テロは予告通り実行されるが、奇妙なことにそのテロに対しての声明はどこからも発表されず、何者が何の目的でテロを行ったのか全くの謎のまま、ただベイブリッジが破壊された事実だけが残った。そんな中、ある奇妙な噂が政府・警察・マスコミ関係者に流れる。事件の直前航空自衛隊三沢基地配属の戦闘機が突如任務から離脱、一時行方不明に、そして橋が爆破される様子が映されたテレビ映像に、かすかに飛行機の機影が、それこそが行方不明になった空自戦闘機だという。噂はやがて国民にも広まり、自衛隊は国民より疑惑の目を向けられることとなり、警察も各基地を中心に自衛隊の動きをマークするようになる。官の一部に緊張が広がる中、首都上空をカバーする空自レーダー網に所属不明の戦闘機の機影、空自による追跡・更には撃墜命令にまで及ぶという事態に至るも、実はレーダーに写った機影は外部からハッキングされた事による機器の誤動作であることが発覚、更にはその事件の最中に首都圏で起きた大規模な電波障害、目的とその実体は不明のままであるが、明らかに何かが起きている、起きつつあることは確かであった。そんな中、警察はますます自衛隊への疑惑・不審の目を向け、政府の一貫した対応不足という事態も相まってますます強める自衛隊への圧力に自衛隊も強く反発、日本の治安維持に関与する二つの組織が一触即発の事態に。そんな中、自衛隊への圧力・示威のために南雲・後藤率いる特車二課も出動を命じられるも、自衛隊の事件への関与そのものに疑いを持ち他に黒幕の存在を特定する。その黒幕こそがパトレイバー運用の第一人者たる南雲・後藤両名共に縁浅からぬ人物であり、その事実に対する苦悩、更に何ら的確な判断を下ふことの出来ない警察上層部の指示に両名とも反発、対する報復としてパトレイバー部隊への指揮権を剥奪の上拘留されることが決定、一方、テロ以降犯人はおろかその目的さえも明らかに出来ず、更に自衛隊とのいらざる対立等治安維持の点に於いても疑問符が付く警察の対応に、政府は遂に自衛隊による治安維持を決定、日本国憲法下での現行法上規定のない事実上の戒厳令を布くことに踏み切る。基地を出た部隊が隊員や戦車と共に街角に立つ中、一部の部隊が主不在の特車二課を襲う。それを合図に戒厳令下にある一部の部隊が次々と蜂起、東京都内の主要なライフラインの攻撃を始める。都下を襲う物理的攻撃と出所不明の強い妨害電波による執拗なジャミングにより指揮系統を完全に寸断され、反撃はおろか各機関の意志の疎通さえままならない混乱の隙をついて拘束中の南雲・後藤は脱出、各所に散っている仲間達・・・パトレイバー草創期を共に戦った元特車二課課員達を召集、警察・政府の指示に依らない自分達だけの判断に基づいて、再びパトレイバーを駆使して敵に立ち向かうこととなる。
 「あらすじ」にもかかわらずこれだけ冗長になってしまった理由は、主人公格であるチーム南雲が実際に題名にある「パトレイバー」で大活躍するのが物語の終盤になってからのことであることとで、あらすじの中にその事を入れたかったことと、山ほどの興味深い情報が満載されたこの作品、これ以上削れんかったという事。更に、まだ書き足りない重要な点が幾つも抜けている。削れないから、この作品に対する観者の視点にありとあらゆる立場と考えと解釈が成り立ってしまい、言うなれば、このアニメ*1で描かれる「SF的な事実」は物語世界を構成するため、という次元を越え、「SF的な事実」の範囲さえ越えて現実世界にまで影響を及ぼすかのよう。この映画の公開された年(1993年)を考えると、その驚愕すべき想像力の産物は「予言」という言葉による説明が一番解り易い。その言葉によって示される英知・技術の結晶とそれによる、或いはそれに依らず全く違う脈絡による種々の問題は、様々の覚知を促す「警告」のようであり、また覚知する以前に既に事の終わっている可能性を示す「嘲笑」のようでもある。現実的に世界中の嘲笑の的になっている(と言われる)という日本という国の更にその首都東京の危機管理能力の低さは余すことなくここに提示され、アニメという形であるとはいえ実際に「破壊」することでとてつもなく売国的な意味合いをも感じる。否、その危機を具体的に挙げることは愛国的な意味合いと言えるか。問題意識の蓄積と絶えず変動する現実に沿わない、更には想像力の貧困を元にする、憲法以下法運用の脆弱さの吐露は、想像力を重要な為政者のスキルとして再認識させる。想像力の欠如は、「戦争状態の認識を得ることが出来ない」という点で考えれば国民自身の罪でもある。自国がいつの間にか他国人のモノとなっているという侵略の恐怖を日本人は2008年の長野市に於いて初めて経験する。このように、この作品の世界で落ちている事柄を徹底的に拾っていくことで、あらゆる、思想の断片と言うべきモノの考えが拾えるようで、その意味で何度観ても、観る度に違った発見がある気がする。ただこの「鑑賞」の仕方、まるで日々の虚言と誇大妄想を自分だけの言葉で書き連ねただけの「諸世記」を読むような空虚感にも通じそうだ。アニメにアカシック・レコードを求める事などバカげている。恐らく実際には、押井守監督はこの作品に「思想性」と言える大仰なコンセプトなどこれっぽちも込めていないと思う。
 バカげているといえば、この作品感想で「パトレイバー」の活躍を述べんがために長大且つまとまりのないあらすじを書かねばならぬほど、「パトレーバー」という人型兵器が活躍する前作の続編としてその部分に固執しなければいけない必然性はほとんどない。あえて続編としたところに監督のギミックを感じるべきなのか。ここまで書いて再び思う。「バカげている」。いや違う「バカにしている」。そうだ、監督は重要そうに見えて実は意味のない自らの織り込んだ記号を読み解とこうとする愚かな観者を嘲笑しているのだ。自分が嘲笑されていることを知り、テロリストの攻撃で破壊されるのは見飽きてしまった東京の街並みを観ながら思う、「破壊されているのは現実でも同じ」。東京にはなんて廃墟が似合うのか。全く関係ない話だが、『二十世紀少年』では、東京湾に浮かび前後の交通を断たれ孤島と化した「海ほたる」は刑務所として使われていた。作者自身の持つ漠然とした不安感がそのまま投影されているかのようにストーリーがくどい浦沢直樹作品を読み返すのはちょっとキツイが*2、押井作品に嘲笑されるためなら何度でも劇場に足を通いそうだ。

*1:「アニメ」と言う言葉を安易に使ってしまうことには大変抵抗があるが

*2:お前の記事だって何書いてあるか解らないとかは言いっこナシで。私自身も読み返すのツライです