『地獄変』

 時は平安、我が世の春を謳歌する時の権力者堀川の大殿(中村錦之助)、一方で庶民達は彼の従者達による横暴に苦しみ、栄耀栄華を極めるのは彼ら貴族達だけであった。渡来人の血を引く絵師、良秀(仲代達矢)は己の腕と大陸からの血筋に強烈な自負を持っているモノの、同時にその血筋と職業故に蔑まれる己の境遇にコンプレックスも持ち、それ故か、おどろおどろしい絵図を描くことを常としていた。ある日、堀川の大殿から無量寿院の極楽絵図の依頼を受けるも、「見たことのない物は描けない。描けるとするなら今現実とするに相応しい地獄絵図だけ」と強い反骨心で大殿と対立している。そんな中、娘の良香(内藤洋子)と恋仲になった弟子の弘見(大出俊)を破門、彼を追って家出した良香を見初めた大殿は彼女を無理矢理妾とする。娘を返すことを懇願する良秀に対し、大殿は見事な地獄絵を描けば彼女を返すことを約束する。反骨の気概を秘め大殿の出す難題に苦悩する良秀、その最中にも盗賊に身をやつし良香を奪い返そうと殺された弟子の弘見の姿、激しい差別の中密かに故郷に帰ろうとして虐殺された兄弟達、苦しい生活の最中にある庶民達の生活を省みず遊興に耽る貴族達の姿、世はまさに矛盾渦巻く地獄の様相、その中で良秀は筆を取る。身を磨り減らすが如く作画に没頭する良秀は、ある日堀川の大殿を訪ね懇願する。「地獄絵の中心を成す業火に焼かれる牛車がどうしても描けない。願わくは目の前で牛車を一台燃やして欲しい」。不遜な良秀の態度に一泡吹かせようと画策する大殿は一計を案じ、後日屋敷に参るように告げる。当日、屋敷に現れた良秀の前には約束通り薪を重ねた立派な牛車の姿、ところが大殿の合図と共に牛車の御簾を開けると良秀の目に飛び込んできたのは紛れもない我が娘の姿であった。
 「zipも貼らずにスレ立てとな?」こんなセリフは無いが、「麻呂」姿が思いの外よく似合い、ステレオタイプ的公家の横暴を期待を裏切らず演じてくれる中村錦之助と芸術家としての自負とマイノリティとしての劣等感、その二つのギャップの中で表す怒りの表情と苦悩の表情、そのいずれも常にどこか歪んでいるという仲代達矢。この2人が延々と繰り広げる果てしない掛け合いが見所。「ワシの牛車に撥ねられたじじいはワシの牛車に撥ねられたことを涙を流して喜んで死んでいったと聞いているが」とかいうクールなセリフを放つ際の悪びれの無さ、錦之助の良さがセリフ回しの際に主に現れるのに比べて、仲代の場合は、無言、もしく一言、その時心身を包む胸中から沸き立つ感情・・・その殆どが苦悩と憤怒・・・を表す表情の変化が素晴らしい。
 そんな2人の鬩ぎ合いが名実共にピークに達する「牛車燃やし」のシーンは両者とも筆舌に尽くし難し素晴らしさ。以前に良秀は、自身の心情をないがしろにする大殿の所行を激しく憎みながら、その大殿と同様に弟子の弘見の心情を虐げ、その所行に気付き苦悩する。この「牛車燃やし」のシーンで両者共に予想外の結果に陥る中、自身の所行を初めて悔悟する大殿の姿は、嘗て同様に後悔した良秀と異なり、後悔しながらも自身の所行お苦悩はしていない、ただただ惚けた表情であるのが面白い。一方の良秀、牛車と娘と、更に娘を追って自ら火の中に飛び込む飼猿と、己の人生が崩壊する有様を見せつけられ、当然の如くその表情に表出する人の親として、人間として取り返しの付かない悲しみ。そして、その後にその表情に現れるのは悔悟ではなく狂気と言える程湧き出ずる芸術家としての旺盛な創作意欲、この変化を、人間としての感情を狂気の感情がうち負かし、人間が人間でなくなる表情を表す、まさに仲代達矢の真骨頂、なんと言おうと、赤々と照る炎に映える仲代達矢の表情が素晴らしすぎる。
 そして映画のラスト、あれだけスゴイ演技を見せられての対抗なのか、遂に完成した地獄絵図を前にして、無限地獄に堕ちていく*1中村錦之助の演技、これもキてる。うーん、こんなん観せられたら、本当に悪いことやっちゃあかんと、地獄巡りの説教坊主の前に座った気分になる、か? 

*1:渦巻く炎の中に錦之助が叫びながら飛んでいく