その九十四 君津市俵田 『白山神社』

sans-tetes2009-02-23

 壬申の乱で叔父大海人皇子に敗れた大友皇子は自害することを免れ密かに遠く上総に逃れこの地に潜伏、この地で余生を過ごしたとも、大海人皇子が差し向けた追っ手と戦って自害したとも、そんな伝説が千葉県旧上総地域に残されている。白山神社内にある前方後円墳は、この地で没した大友皇子の墓とのこと。現実的には、乱の当初いち早く不破の関を押さえた吉野軍(大海人皇子)に対して主力の兵が破られ少ない供しか伴えない大友皇子上総国までたどり着けるとは思えないのだが、この俵田だけでなく久留里線沿線、近くの小湊鐵道沿線に義経逃避行のような大友皇子にまつわる伝説が残されているのは面白い。何か謂われがあるとのこと、確か地元の教師がこの伝説について記した書籍があるらしいが未読。この白山神社古墳も残念ながら壬申の乱の時代より遙かにさかのぼった古墳時代前・中期のモノとのこと。
 この神社に参拝するのは都合二回。一回目は鉄道で*1久留里線の本数の無さに偉い苦労した挙げ句、ここから久留里までふらふら歩いて行く。大分重くなった頭を垂れた稲穂が大量に風に揺られて、その中で作業するお百姓さんが見えたりみえなかったりする様が沈んだり浮かんだりするように見えた記憶がある。久留里の市街に入れば、断りさえすれば何処でも湧水にありつけるので、そんなに苦もなく歩ける。その時はぐるっと古墳を一周。正確には後もう少しで一周というところで崖が邪魔して巡れない。古墳の最西端の少し先、神域内では恐らく神聖に類する位置に妙なモノがある。一対の石灯籠に結ばれた注連縄、普通なら奥の院、もしくはその跡ということで理解できるのだが、その灯籠の間に窪み、掘り返した墓穴をそのままに経過して、堆積物で埋もれたような様子、窪みの底からは向こうに伸びる横穴。注連縄は入ることを遮るように張られ、ほぼ人影皆無の周囲の様子と相まって、神聖というよりは不気味。まさか宇宙人の第九計画によって操られた死人が這い出た穴でもあるまいが、ただ一つ言えるのは、この穴ではトー・ジョンソンは間違いなく詰まって出られないということ。
 訪れた二度が二度とも、境内に人がいた試しはない。が、何故か二度が二度とも鳥居横の駐車場には何台かの車が置かれていて、エンジンアイドル中。二度目の時には中からやたら人馴れ馴れしいおいちゃんが出てきて、「どこから来たの?」に始まってバイクのこと、雨が降りそうな天気のこと、年齢のこと、色々と聞いてくる。別にこういうおいちゃんは何処でもいるのでそのこと自体は大したことはなく、そう言う時にはこちらから土地のこと、史跡のこと、伝承のこととか土地の人しか知らないお話を聞き取ることの出来る好機でもあるので、私はそんなにイヤでもない。おいちゃんの中で一方的に話が大分弾んだところで私も質問する「この社のこと」「古墳のこと」「伝説のこと」・・・。結果は全て「こちらの質問全てスルー」。おっちゃん、自分のコトしか話さん。別にこういうおいちゃんは何処でもいるのでそれ自体は大したことはなく、とは言っても私はイヤ。「雨が降ってきそうなので早めに参拝したいので」とか適当に理由を付けてその場を離れる。
 参道の階段を登り切って、本社。途中の祠に、土手っ腹に穴の開いた小さい大黒像に魂抜き供養の印象。そう言えば以前来た時も紙製の達磨さんが二体、本社ではなく摂末社の所に恐らく風雨に晒されたせいで土台がもげ、無造作に転がっていたので社の屋根の下に置き直した記憶がある。人がいない、木々の間、落ち葉と土の上に赤い達磨が転がる景色はなんとも。
 本社は、都会の社のようにがんじがらめに人を寄せ付けない結界が張っているわけでなく、とは言ってもやはり勝手に入り込めないように拝殿の扉は閉められ、この神社の参拝者具合が解ってよい。拝殿が広いけど使われず、もったいない気もするが、一面木の床、がらんとしてあるのは神具のみ、という薄暗い寒々しい空間は時によい。夏の暑い盛りにここに来ればさぞこの空間を楽しめたであろうが、以前来たのは真夏で、その時この拝殿の寒々しさを楽しんだ記憶がないので、いかに自分の言葉がいい加減かということがワカル。この時撮った写真と以前撮った写真を見比べると双方に、「狛犬の背中越しに、参道の階段、山門を見下ろす構図」がアリ。何度来ても面白い眺めなのとのこと、確認すると同時に、自分のセンスのありきたりなのを今更のように再確認する。

*1:別に、この駅を全国的知名度に押し上げた某漫画を見てのことではない。が、無目的に乗ることは未だにする、タマに