『小三治』

 「小さんは天才だ。彼と同じ時代を生きる我々は実は大変な幸運なのだ(夏目漱石三四郎』より、後半部はうる憶えのてきとー)」漱石が絶賛した三代目柳家小さんの生きた明治の世の遙かに過ぎて、実は今、我々*1はそれと同じくらい大きな出来事を目の前にしている。香盤・芸の両方の意味で「小三治名跡が「小さん」名跡を追い抜く。ひねくれ者の漱石でさえ予想だにしなかった時代を揺るがす出来事の真意は、この映画「史上初めて小三治を追った取材映像」の中で明らかにされる。
 などと穿った紹介をするのが恥ずかしくなりそうなくらい、この映画の中では当世柳家小三治のひたむきな芸への姿勢、そして何より芸を作るに一番必要とする柳家代々の教えを「無意識のうち」に守る真摯な生き方が映される。かと言って決して「糞真面目」と言う風な気張った生き方をしているわけではない、またそれが今の小三治の芸を作る糧なんだなぁとは思う。そー言えば、作中異なる場面で小三治の三様の顔、まず弟子を伴い、また優れた後輩から何かを学びうる対象としての師匠の顔、そして兄弟弟子入船亭扇橋という盟友と昔を語りながらも共に芸を磨く盟友と接する顔、そして人間国宝米朝の芸に接しながらその薫陶を受ける未だ道半ばとする求道者としての顔、なかなか見られない「小三治のそれぞれの顔」これを余すところ無く見せてくれる映像は良かった。感動したのは扇橋との一コマ、お互いの近況のことなどどーでもよい話題をとりとめなくしているようで突然『鰍沢』での芸論に移る二人、長きに渡る盟友だからこそ一瞬にして作ることが出来るこの空気に背中に冷たさを感じるような感動を覚えた。それにしても、三代目小さんより伝統として流れる「あくまでも人が芸を作る」と言う柳家の気風、それを忠実に受け継ぎそれぞれ名を成す小三治・扇橋両者*2を見て、他に目を移して談志・馬風を見る。と師匠小さんの弟子の教育が上手かったのか下手だったのか判断につきかねフシギだ。
 「向いてないことをするのはキツイ」等、作中二度ほど小三治が「落語」を「向いてないこと」とぼやく場面が登場する。小三治流の謙遜かと思ったらどうもそうでないらしい。向いてないこと? これを凄いと取るか卑怯と取るかは聞く人によって異なるだろう。いずれにせよ、その姿勢に学ぶべき所は私的にはあると思った。がしかし、マトモな生き方をする落語家の姿が映画になる世の中ってどうなのだろう。小三治の芸が好きな一人としてはこの映画スゴク面白かったには違いないのだけれども、どこかの破天荒な生き方の芸人の毎日が映画にならないかな? と、破天荒な生き方の芸人がいなくなった今日この頃を憂いてみたりする。

*1:と言うか、一部多少落語に興味のある人達

*2:私的には毒の無い船橋の芸風は今ひとつと言った感なのだが