『わが命の唄 艶歌』

 化粧品会社に広告のコピーライターとして働く津上(渡哲也)はライターとしての自分の才能を全く信じていない。そんな中、同僚で有能なイラストレーターである亜矢子(芦川いづみ)に誘われ一夜を過ごし結婚の約束までするが、「自分の才能を信じて・・・」との言葉を残し亜矢子は自ら命を絶つ。強いショックを受け、自身の仕事に対して尚も疑念を深める津上に上司の黒沢(佐藤慶)は目をかけ、その才能の開花の手助けをする。切れ者な黒沢は有能な才覚を持って幾つもの会社を渡り歩き、あるレコード会社の重役として就任した後、その頃には自らの才能に強い自信を持ち音楽関係の有能なディレクターとなっていた津上を自分の部下に呼び寄せ全般の信頼を置くようになる。元々演歌・歌謡曲を得意とするその会社には演歌関係では伝説的な名声を誇るプロデューサーの高円寺(芦田伸介)がいた。演歌を貧しい頃の日本の遺物と蔑む津上であるが、高円寺の人柄と実際に制作者として演歌に関わるうちに少しずつその魅力に惹かれていく。そんな中、売り上げに伸び悩む会社のテコ入れを巡り黒沢・高円寺は自身のやり方を巡って対立、それぞれプロデュースする新人歌手の売り上げを競い、敗れた方が会社を去ることに。津上は黒沢の片腕として図らずも高円寺と対決することになる。

 面白い。高度経済成長期に物凄い勢いでそれまでの古い価値観と駆逐しつつあった資本主義的考えに基づく新しい価値観を、演歌や伝統的歌謡曲に対して台頭しつつあったロカビリーに代表される新たな日本的大衆曲の登場、そして強力なコマーシャリズムを武器とする宣伝戦略が巷に流れる歌までも消費の一環として変貌しつつある世の中と、それに対する疑問を両方の立場を経験する渡哲也演じる津上の目を通して描かれつつ、そのような中で仕事上の三角関係を形成する渡・佐藤慶芦田伸介の関係や、何故死んだのか自身のトラウマとして深く心に刻みつけられた女性との因縁を、その妹美矢子役の松原智恵子、秘書である彼女にプロポーズをする佐藤、彼女の亡き姉への思慕と不全感から微妙な距離にならざるを得ない渡と男女間の三角関係も形成して、と興味深い人間関係が物語に厚みを増す。「大衆曲」という分野に限定されているが、それぞれ新旧世代を代表する佐藤慶芦田伸介の間に立ち、そのいずれもの長所を認めながら、一方ではそのあまりに急激に進む世の嗜好の変化に戸惑いを覚え、その戸惑いを若さ故の強い感情、それ故の青臭いだけで論理立てることの出来ない憤り、それらを受け止めずにいながらも無縁でいられるはずのない世の動きと同調するように成長もしていくわかい渡哲也の役どころは、あんまり上手とは思えなかったけど、逆に若さ故の青臭さが表現されているようでなかなかに良かったと思う。後半で明かされる佐藤慶の「正体」に関連する重要な伏線である冒頭の「ラブシーンの後、結婚を約束した相手の女性がいきなり自殺してしまう」シーンが唐突すぎてわけわかんねぇ反面物語に上手く引き込まれれる演出になっていたと思う。
 さて、まるで付きまとうかのように主人公渡哲也の前に度々現れる佐藤慶切れ者で冷徹、利益に徹する現代的な企業人を演じながら、一方で有能な部下には目をかけ援助すること並々でなく、そのため酷薄なイメージは薄められているのに、時々見せる「あれっ?」 と思う行動*1の端々に、「ウラ」を感じさせる演技は「お手のモノ」とは言えやはり見ててうずうずささせてくれる。中盤より登場する芦田伸介*2が思いっきり情を乗せて仕事をするアナログな人間なので、感情のを行動の基盤とする人間の行動の分かり難さに本来なら対比、強調されるべき利に徹する佐藤の行動の分かり易さが見えてこない。まさに「ウラ」を感じさせる影のある演技のお陰。あるきっかけで彼の「ウラ」の部分は観客に暴露されるのだけど、その後安心して「悪役」としてみることの出来るようになったおかげでこのセリフ、「だったら日本語で言おう。帰れ!*3」にそれまで判りにくかった彼の役割が一掃された明快さに目が覚めるように感じ、そしてそのセリフ自体の「クールさ」に爆笑する。もちろん、本作での悪役としての佐藤慶の面目躍如は終盤での渡哲也との直接対決シーン。佐藤の「異常さ」を指摘・暴露する渡に対して不敵に笑みを浮かべるような、けど浮かべてない「アノ」表情で、黙したまま揺り椅子に腰掛け揺られているシーンは戦慄するほどの感動を覚える*4。そして、その渡の指摘にあった「彼女を殺した罪悪感」故に悪役が今まで主人公達にかけてきた歪んだ優しさに、涙が出るほど悲しくもなる。
 ある特定のモノ・ヒトに対しての過剰なまでのコマーシャリズムに依存したメディアが本質的に信用できないことは、現在ネットという情報手段が登場することによってようやく一般化した感があり、その意味で高度成長期にその意味を明らかにするこの映画(と言うかたぶん原作)の描く世界はかなり先見的。その意味で今観るとかなり面白い。新旧の価値観の対立が起こった時、利益に強く癒着する方が勝利を得る構図に今も昔も代わりがない。資本主義の恩恵による実感と矛盾がようやく明らかになりつつあったこと、映画を観ることで理解する一方、やはりどことなく未来に対する漠然とした期待感、それは「演歌」が過去の遺物と化しながらもこれからも心に生き続けるとの暗示による比喩で表されているが、「未来への期待感」と言う点においては現在なら。色々思うことのある映画でもある。あと、スポンサーの関係なのか作中多くの挿入歌が登場。私は歌謡曲とか演歌とかに全く造詣のない人間なのでここら辺に知識のある人は更に楽しめるのではないかと思う。

*1:例えば部下に迎えた渡哲也の歓迎の酒席でいきなり松原智恵子にプロポーズしたりとか

*2:彼の役柄を紹介する「劇中劇」ならぬ「劇中(ドキュメンタリー)映画」が流れるシーンはちょっと面食らった

*3:芦田伸介を追放することで歌謡界から演歌を追放しようと目論む彼の元へ大勢の演歌歌手が抗議に来たシーン

*4:つまり、死ぬほど格好良いのです