『人間』

 西伊豆松崎町。盆の小遣い稼ぎにと海神丸の船長、亀五郎(殿山泰司)は甥の三吉(山本圭)と若い衆の八蔵(佐藤慶)、そして島へ小商いのため便乗した五郎助の女房(乙羽信子)を乗せて出港する。どんなに長くとも航海は二日で終わる、そのはずだった。

 極限状態に陥った時にその取る行動の如何、つまりは人間としての性。それを「ある信念」を基にして乗り切ろうとする船長を演ずる殿山泰司を核に、一方でそれに対する「諦念」を体現する佐藤慶演ずる若い衆を対比させ、それぞれに従う山本圭乙羽信子を巻き込み「絶海のただ中彷徨う舟」という限定された空間で繰り広げるれる人間模様を演者達それぞれが迫真の演技でもって表現する。作中、時を経る毎に段々と、表面的な危機である飢餓への恐怖は危機の度合いとしては二の次に、真の危機はエゴを優先する余りの信頼の崩壊、やがては人であることの崩壊と、なんつうか「飢餓モノ」にありがちな人間性の崩壊の過程をこの映画では一言、「執拗」な表現によって形作る。例えば、最初の危機、飲み水の枯渇を目前に残り少ない水を4人で分けるシーン、一升瓶の水を猪口で酌み分け均等に飯茶碗に入れていくシーン、水を分けるのは船長たる(そして良心の象徴たる)殿山泰司の仕事。その殿山泰司を下から見上げるカメラ、次に少しずつ注がれる飯茶碗、最後に自身の割り当ての水に注意深く視線を注ぐ3人。その間言葉を発する者は一人もいないが、各々の気持ちは全てその表情が語る・・・佐藤慶は「割り振りへの疑念」、乙羽信子は「早く喉を潤したい事への焦燥」、山本圭は「近い将来に訪れる枯渇への不安」と言ったところか? 割り当てられた自身の水を平らげる三者三様の潤し方も対照的でコレも執拗な描写*1
 次の危機、食料の枯渇に瀕しての危機、特にこの危機を自らの手で招く形となる諦念組・・・佐藤・乙羽組における向こう見ず*2な危機回避の方法も、執拗・・・メンバーの中で既にその役割が「サタン」或いは「ユダ」にとなっている佐藤慶が見せる下品な食い意地*3も執拗。そして最大の危機のシーン、甲板の板目から光が差し込む船底から、甲板の上を行ったり来たりしている山本圭の太ももに舌なめずりするシーン・・・*4
 一方で殿山泰司、徹頭徹尾人間の良心を体現する役柄なのだが、それを支えているのは何の担保もない「金比羅様への信仰」のみ。危機に陥る度に唱える「南無金比羅大権現・・・」のお題目は、このシーンを執拗に映すのは彼の抱える「良心」の重さは何かに依らねば常に吹き飛ばされてしまいかねない大変軽いモノであることの裏返しなのであろう。彼が自身信念を身をもって教える甥を失ってしまった時、その信念を危うく破りそうになった時もこれを支えたのは良心・・・それは殿山が演ずる亀五郎船長本人の持つ良心ではなく「敵」となった音羽信子演ずる五郎助の残された良心、この良心がこの時亀五郎を救い、最後に船と3人を救う結果に繋がる暗示*5となったことに対して、その良心を植え付けた五郎助に深い原罪の心を植え付け最後に報われなかったこと*6は大変な皮肉だ。3人が救助され、救助してくれた船の上で繰り広げられる光景もやはり執拗な「人間として当たり前な」行動*7、最後の最後のシーンは殿山泰司の顔のアップ、それは良心を守り続けた者としてあまりに寂しい表情、これまでの信心を映し出す執拗さが報われない。これを、これこそがあるべき人間の姿だと制作者からのメッセージと解すれば、やはり最後の最後まで執拗に人間の姿を描き続けたのだろう、いずれにせよそのシーンそのシーンで役者が演ずる肉体的、精神的飢餓感が容易に観者に乗り移る、役者達の鬼気迫るまでの演技が光る映画だった。

*1:この時佐藤慶山本圭を眺める目付きは将来への伏線に他ならないだろう

*2:且つ、信頼関係の崩壊を伴う

*3:せっかく手に入れた芋を半煮えで食う、自分は先に食ってしまい後でゆっくり食べる乙羽信子を「早う食え!」とか言いながら恨めしそうに眺める、挙げ句船底を転げ回り残りの芋を生で食べてしまうシーンの佐藤慶はその行動同様の野卑た風貌と相俟って最高である

*4:よりによって朝昼食べ損ねて映画に臨んでこの作品、食事のシーン(殆どは空想上の)の度に腹が鳴り、遂にこのシーンで限界・・・私も人間やめそうになりました

*5:亀五郎の良心が生み出した「ウソ」によって生きる最後の気力を3人が持ち得たこと

*6:いや、「報いを受けた」と言うべきだろう

*7:食って寝て起きる