『鬼婆』

 京と吉野と、日本国に二人の天皇が立って争った南北朝時代。京の都近くに広がる広大な芒ヶ原と呼ばれる湿地帯に二人の女が住んでいた。戦によって田畑を荒らされ働き手の男を戦に奪われた男の母(乙羽信子)と男の嫁(吉村実子)は食べていくために芒ヶ原へ迷い込んだ落ち武者達を殺して着ている物を剥いでは闇商人の牛(殿山泰司)の所で食べ物と換えていた。ある日、嘗て女達の息子/夫と共に兵として戦場に連れていかれた八(佐藤慶)が一人で戻ってくる。八が言うには湊川の戦から逃げる途中に付近の農民に襲われ、女達の息子/夫は叩き殺され八のみ命からがら逃れて来たという。近くに住み着いた八は女達と同様の方法で糊口をしのぐようになるが、女達は息子/夫を見捨ててきた八を仇と見て毛嫌いする。芒ヶ原での生活に慣れ、適当に腹も満たせるようになった八は、後家となった若い女に目を付け執拗に誘い始める。満更でもない嫁の態度を気にくわない姑はあの手この手で邪魔をしようとするが、遂に八と通じるようになった嫁に対して姑は・・・。

 新藤兼人作品。物語の中心となる乙羽信子・吉村実子・佐藤慶それぞれの迫力ある体当たり演技に圧倒される。中盤より「食う事」が満たされてくると明らかにその欲望の向く先に変化。きっかけとなる、佐藤慶の嫌悪を誘うような舐めるように目付きに*1、着た切り雀の直垂*2を片肌脱ぎに刀を研ぐ乙羽信子、露出が多くなるなと思ったら対して吉村実子も諸肌脱ぎになってる、以降三人共に顕著になるフラストレーションの吐露の表現が三者三様で見もの。葦の原を叫びながら転げ回ったり駆け回ったりしてる*3 *4若い二人に対して、歳を重ねているが故に欲望の箍となっているモラルのお陰で物凄くフラストレーションの吐露を物凄く陰湿に表現する老婆との対比、どっちも圧巻な体当たり演技に違いないが、欲求不満が嫉妬に、その嫉妬を更に嫉妬するが故に宗教掛かったモラルにすり替えて説く事で自身の嫉妬をより歪なモノに昇華・転化している哀れな醜態を演じる乙羽信子がより圧倒的。時に(既に欲求を満たした)佐藤慶に「ババア!」と罵られてもその醜悪さ故に可哀想などと言う気持ちは微塵も抱けない。

 冒頭で何よりも初めに紹介される「太古から存在する」「穴」、冒頭の暗示的な言葉だけでなく作中繰り広げられる人間模様から、この「穴」が何を暗示するか一概には言えないが、一つは人間本来の性としての欲望の暗示だろう。乙羽信子と吉村実子の二人は着物を剥いで裸にした落ち武者達の死体をこの穴に投げ捨てる。終盤で「婆」の顔に鬼の面が取り付いて離れなくなったのは、「婆」が若い二人に嫉妬した祟りでも鬼の面の落ち武者を殺した祟りでもなく、恐らくは欲望の終着点としてただそこに存するだけの「穴」へ侵入してまで己の欲・・・武者の衣を剥ぐ「物欲」と武者の素顔を除く「好奇心」・・・を犯した事への祟りなのだろう。結果訪れた残酷な罰*5を受け、吉村実子を追いかけ回しながらの叫び声「ワシは人間じゃ〜」のセリフ、望む事何一つままならなかった人間が発するからこそ突き刺さる一言、新藤兼人監督はこのセリフがために乙羽信子を徹底的に醜くせしめたのであろう。いずれにせよ最後の最後まで凄まじい乙羽信子の体当たり演技が文字通り鬼気迫る勢いだ。

*1:お好きな人にはたまらない

*2:作中で佐藤慶が「良いモノ着ている」と誉めてる、追い剥ぎで得たモノだろう。文様がキレイ。カラーじゃないのが残念。文様の「蟹」の意匠、海や川に住み水死体に群がり骨になるまで食い尽くす習性の暗示もあるのだろう

*3:佐藤慶はずっと黒い袈裟を着ているので転げ回るシーンは足側の白い褌が目立つように映っておもしろい

*4:けど佐藤慶が吉村実子を裸で追いかけ回すシーンは前に上映した『女医の愛欲日記』を連想させてしまい失笑。アレの後にコレの上映順明らかに間違ってるぞ!

*5:かぶった鬼の面が剥がれなくなり、無理矢理剥がすと傷だらけで醜く膨れ上がった顔が現れる