『日本の悪霊』
ある地方都市。そこを古くから根城にするヤクザと新興のヤクザとがその街シマを巡って争い、古くからのヤクザ、鬼頭組の組長(高橋辰夫)自らが相手方、天本組の黒幕とされていた地主を刺殺して刑務所へ、その組長が近く刑期を終えるという事で、勢いを盛り返そうとする鬼頭組と対する天本組と再び抗争の気運が増す中、鬼頭組の上部組織は助っ人として切れ者と名高い村瀬(佐藤慶)を現地に派遣、時を同じくして抗争の拡大を危惧し特に鬼頭組を抑えたい地元警察へは県警本部より落合警部補(佐藤慶、二役)が派遣。「まるで他人とは思えない」姿のこの二人、村瀬の女が村瀬と間違えて落合と寝た事から縁が生まれ、相対する事となる。自分と姿形声まで同じの落合に向かい村瀬はある因縁を語る。その因縁を晴らすためしばらくの間お互いの身を入れ換える事を提案する。
「あんた、根っからのヤクザじゃないな? ヤクザはそんな風な考えは持たない」その言葉と共に始まる、ヤクザと刑事の「とりかえばや物語」。当初、村瀬が語ったように「敵味方」の立場であるはずの二人の「佐藤慶」は互いに得た立場の新鮮さを時に楽しみながら、時には「本来の」立場を利用し、いつしか「今自身が演じている」相手の自身の立場から「相手が演じている」自身の立場を鑑みる。異なる立場、異なる思惑から始まった二人の原点は意外なところで重なる。いずれも過去に「落とし前」を付け損ねた共通点。相手を演ずる事で両者が計らずとも陥る強烈なアイデンティティクライシスは入れ替わり立ち替わりの混乱の醍醐味を満遍なく観客に与える二役の真骨頂と言える。時に、「役の中で相手の役を演ずる」ことで「両者の行き来が反復常ないと」例えたくなるような佐藤慶の演技は正直「ずるい」程巧み。こんなカネの無さそうな映画なのに、役者の演技とフォークソング的思想とで映画を保たしている。やはりこの映画の中での佐藤慶は「ずるい」。ずるいほど「巧い」。故に、最初で最後、二人の佐藤慶が同じ画面に登場する、別々の方向から現れる二人・・・一人は日本刀を持ち、一人は唐傘を持つ・・・この二人が橋の上で落ち合い並んで歩く場面の格好良さに息を呑んで感動した。佐藤慶はやはり、死ぬほど素晴らしい俳優だ*1。
佐藤慶が演じる二人が付け損ねた「落とし前」は、戦後日本の姿そのままに重なる。嘗て特攻隊として死に損ねた落合と、左翼運動に身を投じ組織の命令を信じて計画の遂行を遂げた村瀬、いずれも「捨て駒」にされかけた人々の思い。日本の国土はこの捨て駒にされた人々で満ちていながら次から次へと押し寄せるあらゆる均質化によってそれらの思いは押し流され、その様子は度々登場する埋め立て地をならすブルドーザーの姿に象徴、その地でフォークソングを奏でる事に意味を見いだせるまでどの位待てばよいのか? この、歌を歌いながら人々に素朴な本質を問い、時々映画の枠も離れる岡林信康の存在には悩んだ末に受け入れた。ヤクザでさえ宴会の席でフォークを歌う世間で歌をどう信じればよいのか? 疎外さた人外の存在を、それ故に村瀬の背に付いた影を追って回る土方巽が「最後に残る」「意味」についても考えてしまった。こうして思い出すと次から次へとこの映画に隠された意図のようなモノを手繰らざるを得ない。思えば番組冒頭に村瀬役の佐藤慶が登場しながら彼の声を聴かせずにじらし続ける時からこの映画の意図するあらゆるモノが気になって気になって仕方がなかったんだろうな。
*1:勿論、このベストなカットを引っ張り出した監督初め制作陣にも乾杯