拾遺 宇和島市日振島明海 『天神社』→しまさんぽ

宇和島市日振島明海 『天神社』の続き

 明海漁港の端っこにある神社、「天神社」はコンクリート造りで、いかにも潮風に耐える風を示して漁師達の崇敬の厚さを窺わせます。そのせいと言ってはなんですが、拝殿の扉固い戸でぴったりと覆われていて容易に入るコトも出来ません。ただし戸の両脇にはガラスで区切る開かない窓が配置されているのでそこから中をひょいと覗いてみると、正面真ん中御神体を収めた脇脇の壁に掛けられているのは緑色の牛鬼のお面。そういえば、宇和島と云えば闘牛と牛鬼です。四国本当から離れた離島のこと故今まで失念していたのですがココも宇和島には違いがなく、牛鬼のお面を奉り、お祭りの際に山車を先頭に練り歩いたとしても不思議でない。宇和島市街の和霊神社でも常時、牛鬼の面を掲げていますが、和霊神社は元々祟り神とのとこと、天神社も元を正せば祟り神、牛鬼もまた祟りを成す妖鬼の類、互いに気があったり、或いは無理矢理居候していたり、とにかくこの離島での両者の邂逅、色々あったのでしょう。

 そういえばお宿のお部屋の床の間にも牛鬼のお面の飾り物。宿のおかみさんに聞いてみると、そばの天神社の年一度のお祭りにはやはり牛鬼のお面を先頭に集落を練り歩くとのこと。南予一帯では非常にポピュラーなモノなのか牛鬼さん、元はと言えば海岸を歩く人を襲って海に引きずり込んで喰らう悪逆非道の魔物です。

 この天神社周囲を本腰でウロウロと見回ったのは先の記事で紹介の純友神社をウロウロした次の日の朝のことなのですが、何故かこの時明海の港に海保の船が停泊。保安官の皆々様が物々しく・・・ではないな、にこやかに・・・と言うワケでもなく、ともかく任務意中という風は確かに港の中を歩いている。カメラ構えても特に抵抗はされなかったが「ブログ当WEBにあげるのは止めてくれ」旨の注意を受ける。よくわかってらっしゃる。天神社のお祭りは毎年9月だそうで、それまで牛鬼さんは神社内でお休みです。ヒマに任せて祟りを為したり同じくヒマそうなネコ達とつるんで明海漁業隣のスタンドを襲っても海保を呼べば安心だね!*1 

 この日残りは、延々と島の中を歩いていました。縁もゆかりも無い離島をふらふらと歩くとよく島の人に話しかけられますが、この島に何をしに来たのか明確な返答がし難いと云うこともあり不審者に見られやしないかと勝手に自己嫌悪に陥るのはなかなかのモノです。島を歩いていて気付いたのはまずネコが多いことです。これは先の記事で局地的なその様子は紹介しましたが、この傾向は島全体に渡る傾向だったようです。その次に気付いたのが二輪車に乗る人が殆どメットを被っていないと云うことです。今の御時世の島の生活、間違いなく大変だと思うのですが、見た目大らかなだし誰も何も言いません。

 日振島は南北二ッの島が細い橋(きょう)で繋がったような形をしています。島内の集落は3ヶ所。南東側に「喜路」集落、真ん中が「明海」集落で島の中心、北西の端にあるのが「能登」の集落です。集落それぞれの港に宇和島港から来港する連絡船が寄港している。本数一日3本、離島を訪れる定期便の本数としてかなり多く頑張っていると思う。それにしてもそれと同数の停車になっている日豊本線宗太郎駅とは一体なんなんだろう?

 離島の加住区域は大変限られていて狭いことが殆どなのですがこの島もご多分に漏れません。先に挙げた3ヶ所の集落の間は険しい山に覆われていて昔は歩いてこの間を行き来するよ舟で移動するのがずっと便利だったのでしょう。今でこそ舗装された県道が各集落間を結んでいるモノのこの道路、狭い島の中を登ったり降りたりと地形に合わせての上下がせわしなく、島に道を造ることが困難であったこと物語ります。よって、この間を歩いて渡ろうと宿のおかみさんに話した際、純友公園を訪ねたときと同じように「何故?」と云う顔をされたのが凄く印象に残ります。訪れるお客さんの殆どが釣り目的で訪れるこのお宿で私はどんな客に写ったでしょうか?

 実は集落間の連絡、島のメインストリート、県道以外に明海能登集落間に限ってはもう一本島の向こう側、途中まで山の中を通っていくルートがあること、Yahoo!地図を見て気付く。宗太郎越の記事で紹介したようにこの地図に載せられた山道のイイカゲンさはお墨付きなのですが、ルートの入り口が日振島小学校の裏側から伸びていることもあり、このことから子供の遊び場にもなっているコト漠然と予想、たいしたことはあんめいと現場へ向かう。

 春休み中で通う児童がいないとは云え校庭で遊ぶ子供が一人もいないのはどういうコトなのか? そんな離島の校庭に黙って進入するのも憚られたので、「裏道」を通る許可を学校の教師に問おうと職員室の窓を叩くと休みにも関わらず仕事中の先生が対応してくれる、忙しいのにスイマセン。ところがワケを話したところ速効で拒絶。「昔は能登から通う生徒の通学路に使っていたが」「今は荒れて廃道になっている」「イノシシも出る」とのこと。ガキと一緒にすんな、と思うが訴訟社会のゆとり世代に付き合うこのご時世で教師に冒険的経験の許可を求めるコトが困難であることはよく解るし、当方ココでは縁もゆかりも無いヨソ者のコトとて余計な仕事を教師にかけることも憚られたので素直に引く。教師、当方信用してない。尤も当方も教職信用してないけどね。

 仕方がないので道をそのまま南、喜路の集落方向へ。ここから先、人の使ってそうな建物はこの小学校を最後にしばらく途切れます。

 左手は大抵海、右側は大抵山、そんな風景が続いく舗装された道はしばらく海岸沿い。時折通る車は悉く軽自動車、バイクはみんなノーヘル、別に目的もアテのあっての旅でなし、のんびりと行きましょう。

 明海・喜路道中最大のハイライトは南北2つの島が繋がっているように見える日振島の一番細くなるこの部分でしょう。人工的かけられた橋(はし)のようですが、しっかりと陸地同士を結ぶ橋(きょう)になっています。集落にあっては見ることのできない島の裏側(南側)がここから遙かに望むことができます。小さな島が点在する宇和海の印象を離れた景色、ここ日振島が宇和海の端にあることをよく教えてくれる景色です。

 海が大荒れの時にココを通過するのはかなりのリスキーですな、考えてみれば。その事と関係するのかよく解りませんが、橋の袂明海側に奉られている?

 たぬき像。

 海面すれすれの橋はすぐに終わり、喜路側に入ると道がいきなり傾斜を急に上の方へ向かって行きます。日振島本来の急峻な地形が際立ってきます。

 傾斜になった道を上りきった辺り。一番高い辺りは大崎鼻と呼ばれる岬の根本の辺り、この岬を越えると喜路の集落が見えてきます。ところで、島から帰ってから得た情報ですが、喜路の山の辺りに古墳伝説があり被葬者は一説によると藤原純友その人との説も。嵐で崖の一部が崩れてその中から刀剣や鎧兜が出土したとの話しもあるのですが、近づくと祟りを為すと云うことで地元の人は誰も近づくことがないそうです。

 島の旧家で江戸時代は庄屋の家柄だった喜路の清家家に嘗ては昔の記録や宝物が多く残っていたそうで、その中に純友由来の遺物も残されていたとのことですが、火事にあって全て失われてしまったそうです。現在島に伝わる純友の痕跡が極端に少ないのはそのような理由もあるようです。「火事で全て焼けてしまった」と言うのはこの手のお話しのオチとしてはよくあるお話しなのですが、いずれにしてももったいお話し。

 道は再び坂を下って、その下りきった先にようやく現れたのが喜路の集落。海岸に沿って細長く伸びた集落。

 途中にネコ。

 の更にその先は入江状に奥まった漁港に小さなドッグ、

 由来の解りようハズもない石仏を通り過ぎると

 やはりたむろしているネコばっか。

 ねこねこねこねこ・・・。そんな景色に決別のバイバイをカマすが如き、港の漁船に飾られた(?)手袋の、指で作る輪っか。
 
 あまりに平和に島の移動をしたので帰りは丁度昼前に喜路の港に着く高速船に乗って明海まで。歩行半日航行あっという間、よゐもせす。ねこくんじゃあね。

 ひょい
 それにしても日振島ネコ多い! もしも僕が二回りほど小振りな武智鉄二だったら『日振島の昼、ねこ・ねこ・ねこの物語』と云う映画を構想したかも知れないのに、ああ趣味悪!

 言っておきますが島に「外来者向け」の商店はありません。自販機さえ怪しいです。島を訪れるとき、島歩きを敢行する時宿のおかみさんが言っていました。「何もない」と。別に何もなくてもヨイのです。そのため食事は前日のお宿にお昼ご飯をお願いして、美味しくいただきました。色々複雑にお世話になりましたが、これでお宿を出る事に。今度は島の北東の方、能登集落の方に行ってみる事をおかみさんに告げるとその表情に「なんのため?」という風な疑問の色うっすらとうかがえたモノの、そこはそこはもうさすがに慣れたのでしょう、最初に浮かべていた怪訝な表情からすれば大分和らいでいました。
 背負っているリュックについて、「能都方面なら宇和島行きの船の中継地だから乗せといてあげようか?」との申し出をいただいたのですが、どの便の船に乗るか*2まだ未確定というコトもあり、タイミングを逃すとリュックだけ宇和島到着というマヌケで取り返しのつかない事態にもなりかねない危惧もあり、ここは自分で背負っていく事に。なんでも九州方面からの雨雲が近づいていて午後雨が降るかもしれないとのコト。大変お世話になりました島内数少ない選択肢の中の私が選んだお宿は明海集落「旅館磯乃屋」さんです。普段は殆ど釣り客ばかり、日振島を釣りで訪れるならとても便利なお宿です。*3

 宿を出ると集落の一番端に短いトンネル。午前中踏破した喜路方面にはトンネルが全くありませんでしたので、日振島明海能登への行路は一転して異界感溢れるスタートとなります。

 このトンネルを抜けるとすぐに、右手に見える謎の施設。海岸線に沿って何となくレジャー目的、そんな風に何となく用途は判るのですがいる人は皆無、不思議な施設と行き合うことになります。これはなんだというと

 「南予レクレーション日振島」これがかの・・・バブルを遡ること遙か以前の夢の跡。本当にやりっ放しのまま放置されているようです。敢えて擁護すれば今の時期は思いっきりオフシーズンなので・・・と言えなくもないですが毎シーズンお客さんで賑わっている施設にこの寂寥感は醸し出せまい。まさに夢の跡を醸し出してます。これからどーすんだろ。

 いやいーもの見せてもらった*4ところでこの先は島の山に沿って線形悪いぐにゃぐにゃ道、それを上り切ると再びトンネル。今度は結構な長さに結構感心、しているとトンネル途中に道の脇に細長いビニールシートが何かを掛けてあって最初人が寝てんのかとビビリましたが違いました。いずれにせよあまり使ってる様子もないこのトンネル、日本の道路行政の素晴らしいところですね。それにしてもコレだけの距離にこれだけのぐにゃぐにゃ道とトンネルを繋げなくてはならなかったのですから、昔は集落間の陸路での移動がとても困難だった、それはヨクわかります。

 トンネルを抜けるとキャンプ場入り口が現れます。人の気配全く無し。他に海水浴場らしい海岸への道とかナゾの山側への道(恐らく小学校で追い返された道に通じている)。方向性として島のこちら側は大々的にレジャー中心の開発行おうと考えていたようですね。更にその先、今度は岩肌を削って通したような道のそのまた上は木々で覆われた山道の様相、道中ほぼ全般、海を望んで山を上下した喜路方面とは益々対照的な道です。ここまで述べているこの日の午後の部、実は出発時から雲行きが怪しいままに強行したとの事情もあり、この時点でとうとう雲が耐えきれず泣き出す。道上の空を木の枝葉が覆っている間はヨイが、その屋根が無くなると雨具を使わぬと難儀し出すくらいの雨量になってきたため、屋根のある間にちょっと雨宿りをすることに。石仏に断りを入れて

 雨宿りの間に起きた一番大きな出来事は「軽自動車しか存在しないと思われていた島内で初めて普通車、しかも巨大なミニバン」というコトくらいでしょうか? 雨少し落ち着いて島歩き再開、道上を覆っていた木々が無くなると久々の宇和の海、島の幅が細くなっているこの辺り、午前中に行った南東側の橋のように小さな島を繋げているような印象を抱きますが高さはかなり高い位置。この場所に今来た道とは別に、山の裏側へ向かう階段があり、これが午前中日振島小学校の先公に止められた学校の裏につながるイノシシが出るという道の入り口なんでしょう。確かに明らかに人が利用している形跡が無く葛みたいな草に覆われて歩くのが難儀そうですが、ヘンな道と云うことでやはり興味が沸きます。無責任に島の道を歩いているようで実は船の時間に間に合わなければいけないというなんとなく計画性もあることですし、行く時間がないのが大変残念でした。

 島の幅が細いのはほんの少し、島の線形に沿ってまた急なカーブを描く道の先は再び島らしく、そしてその先の道が二又。左側山を登っていくような未舗装のコースに右側海岸線に沿って行く舗装のコース。どう見ても正答は右側のコースですがここは当然の如く左側のコースへ。

 そして当然の如くの本格的な山道に

 途中木々の切れ間から目指す能登の港の入り江らしいのが見えて「勝った!」とも思ったのですが。 

 当然の如くの行き止まり。戻ります。

 ただこちら側の道、途中江戸時代の年号が残る石仏が数ヶ所立ってましたので少なくとも「旧道」であったことは確かなようです。歩いている時は間違いなく「旧道」の方が楽しいです。

 二又まで戻るとコンクリ壁に石仏。新道開削の際こうやって避難させたんでしょう。粋なモンです。

 でやっと右側正規のコース。ここからはほぼずっと海が見えて海を行ったり来たりの漁船がよく見えて。

 まもなく集落に着きました。ここが日振島第3の集落、能登集落、宇和島行き船着き場。

 集落内には神社やお寺、また港の先っぽに何に使うのかなんかの加工場か、よくわからないけどのぞいてみたい建物があったり、ヨソ者に動き回られると地元の人がとても嫌がりそうな施設がちょこちょこあったのですが、雨に濡れたり歩き通しだったりと人並みに疲れていたのでスルーしておきます。

 唯一行ってみたのは島の観光地図にも載っている能登集落の裏側にあたる「能登の奇岩」。ただ正直言ってここに来るまでに散々奇岩は眺めたのでそれよりも気になったのはこの場所より海上遙か向こうに見えた陸地。方向から行って九州大分、臼杵や佐伯の辺りだと思いますが、以外と近いものなのだとかなり感心。確かにこの島を押さえれば西予から瀬戸内更には畿内、九州に渡って太宰府と各地要所を素早く押さえることができる、藤原純友の戦略上の着眼を最後に見た気がします。
 それにしても日振島、小さな島なのに場所によって色々と面白い景色を見せてくれて、歩き回るのに楽しい島でした。
 その後無事、定刻通り到着した盛運汽船の宇和島行き高速艇に乗り込むとコレがすんげぇスピードで飛ばす飛ばす、疲れてちょっと寝入ったと思ったら。

 あっという間に四国本土、宇和島市内に着いていましたとさ。

*1:などと冗談でも言えない事態になって参りました、その後。海保がんばれ

*2:搭乗の可能性のある船として「行きに乗って来た足の遅い一般船」と「これ逃したら帰れない、途中で前の一般船を抜いていく高速船」の二本が考えられた

*3:http://ehime-ekibun.com/object_detail.php?from=&act=&genr=200&uid=SS100157

*4:性格悪・・・