神在月、出雲伺って出雲大社に行かない 雲州平田 鰐淵寺

(http://d.hatena.ne.jp/sans-tetes/20121022の続き)

 「日本海は荒れてなくてはいけない」と云う育ちの悪さから立拠する妙な刷り込みのせいでほんの僅かバスの車窓から見える日本海が荒天のおかげでひどくない程度に波が高かったのがとても満足でした。

 ただ問題は、その荒天のまま乗車バス停到着。バス停から目的地までちょっと歩かなければならないのですが、段々と山の中に入っていく道、荒天は相変わらず必然的に

 殆ど滝か沢かと見紛う坂道を歩いていかなければならないでした。ちなみに上図は普段ささやかな流れであろう沢がにわかの大雨で水量増した本当の滝ですあしからず。その先にある目的地は「鰐淵寺」と申しまして出雲地方を代表する名刹、かつてはかの出雲大社別当寺を勤めていたコトもあったと云いますからかなりのモノです。

 名刹に相応しくお寺を巡る縁起が多々ある様子、それらの物語の数々を道々掲げられた絵と看板での説明

 本来ならばそれら縁起の数々を眺めてああありがたいありがたいと心清らかな気持ちになりながら山門に至る

 そんな道行きが正しいのでしょうが、どうもこの縁起図がいかにも素人臭い手描きといった風でとても微笑ましくあまり有り難い気持ちにはならない。無論これはこれですごく良いものなのですが。

 中でも一番興味を持った八百屋お七に関する縁起。焦がれた相手の吉三がこの地で行き倒れたとの言い伝えがあるとのこと

 その示された吉三の墓はこっちの方にあるらしいのですが良くわからず断念。八百屋お七と云えば耳袋だかなんだかに記されたある人の夢に出たと云う鶏となった後生、杉浦日向子さんが『百物語』の中で具象化していましたが、その姿がひどく不気味で怪談話を描きながらも作風からどこか朗らかな匂いの立ちこめる本作にあって一二を争う禍々しさを放っていたのが印象的です。

 足元悪いとかそう言うレベルはとうに過ぎ去った参道の先、薄暗い山門を潜った先しばらく頭上を覆っていた枝葉が一時晴れて、ようやく鰐淵寺の境内に到着。ちなみに上図は参道と並行して流れる普段はせらせら流れのささやかな小川と思しき鰐淵川の流れで参道ではないですあしからず。

 幸いにして雨露から守る山門、このまま少し天気の様子を見ていればよいのでしょうが、山門奉納された千社札の一つに昔職場にいたクソ野郎と同姓同名の名を見つけて、今更それほど腹立たしい思いは無いモノの縁起良いとも思えないので先を急ぐ。

 ここまで当然の如く後にも先にも参拝客のいる様子なく、恐らく本日初めてだろう参拝客として木戸賃を払います。この時期出雲地方はまだ暖かいよと聞いていたのにひどく寒く木戸番小屋はストーブを焚いていました。

 山門過ぎて暫し頭上を覆う木々の晴れていたのも束の間、境内入ると再び覆う木々。殆ど落葉樹で実はこのお寺秋は紅葉の名所として有名で大体今頃から葉が色づき初めるとのコト。つまり私は初めから時機を逸してこの場所に現れたわけです、いつものことですが。

 ただ結果的には時機を逸したとは思いません。広大な、少々寂れ気味な境内を一人満喫できると云うコトも理由の一つですが、実はもう一つ最大に理由が控えております。その理由はしばらく先に判るわけですが


 こう書くとまるで負け惜しみのようですね、そんな気分は足元少々先走って落葉してる紅葉でも眺めながら晴らしましょうか

 本堂はそれなりに立派なのですがやはり端々発せられる凋落感。崇高さと寂寥さバランスが、この時期寂寥気味にやや軸足移す

 むしろ本意と云わんばかりに境内唯々雨の音

 風向きが変わったのは本堂隣のお稲荷さまで眷属さん前にできた広大な水溜まりをぼんやり眺めていた時。

 山の方から段々と暖気の近づいている様子が谷底より濛々と沸き上がる靄の教えてくれる。晴れ間が近そうだと

 実は本来の目的地、更に奥の道も悪いの、天候具合によっては到達を諦めなければ行けない場合も考えたのですが*1

 一旦本堂下まで降りて再び山の方へ向かう、目的地は「蔵王の滝」。案内によると「徒歩10分」とのコトですが、その案内より5秒後に現れる鰐淵川の流れが「徒歩10分」の案内の可否、著しく怪しくさせる。橋では無くこの石を渡るのです

 普段水量が少ないせいか、川中あの様に五輪塔の如く組んだ石。雨後増量の折よく立っていられるモノだと感心する

 少し先には立派な階段。やれ予想に反してしっかりした道じゃぁないか

 登り切った先に何やらお堂。あれが滝に沿っているという蔵王堂か?もう着いたか、案外早いじゃぁないか。

 ところが周囲何処を見渡しても滝の姿が見えない。それどころかなんだか手のつけようのない土砂崩れの跡。

 本当に紛らわしいことに本来の道はあの立派な階段の脇に抜けた崖沿い、足元は当然の如く悪く

 まかり間違えば鰐淵川へ真っ逆さま。やはりこうでなければ

 「道を間違えているのでは?」と云うささやかな疑問はこのように時々積まれている石によってこの道が信仰の場へ向かっているであろうこと答えと為しているが

 沢から溢れた水が沢も道も一緒くたにして判らなくしている眼前の光景が目に入り「やっぱ道を間違えているのだろう」と云う反復が止まらない。先程の謎のお堂の例もあったことだし

 これは何かというと道だ。

 久々に立派な石段が現れて、既に足元大水のように洗われて、

 まあ何にせよ少々の油断で沢にボチャン

 石段の先には何やら四阿がある様子。誰も言わないだろうから言わせてもらうが、誰がこんなところで休むのじゃ?

 確かに目の前に小振りな滝、天気の如何によっては心地良い休息を取れなくもない、がここまで来ると周囲明らかに手入れの行き届いていない様子、要は景色も道も荒れている。遺憾ながら、この場で休息するればひどく不安な気持ちになるだろうこと私が保証する。

 ここまで来たら「尚も」と冠した方がいいかもしれない、「道は続く」

 そして何やら怪しい構造物。柵と足場を兼ねていると思われるが水際の桟橋にしか見えないあれを足場にするのが何となくコワイ

 滑ればあの向こう

 そしてこの「桟橋」より先の道、ぶつ切れているので道とは言い難いが一応は道の先勢い強く流れる沢に足場と思しき飛び石、飛び込めと言うかの如くこのように見るとまさに桟橋!

 別れの桟橋、柵に手を当て、岩の影から半身で向こうを覗いてみれば

 ・・・! この位置からだと崖の影になって半身しか見えない。見たい!もっとよく見て拝みたい!

 けど道ねーじゃん、どうやっていくんだよ!

 行けました

 折からの雨、沢は急流、流れに飲まれそうな飛び石を渡ることこれで三度目、たったそれしきの、苦労と言うにはおこがましい、がそれ相応それなりの対価とするに十二分な景色が、沢渡った向こう岸真正面。

 お堂にかかる一筋の滝は濁世と一線を画する姿とも思われ、已に晴れ間の見えたる濁世まだ清め足りぬと言わんばかりの水量

 滝の飛沫だけでなく山上の草木存分に吸い取った雨露の類悉くやがて滝の一筋に託し堂を掠めるに当たりその本懐遂げたかの如く一斉に散華する様

 一縷の祈りが積もり積もって一気呵成に成就する様に似る

 例え信仰を伴わずともその彼の地に神秘神聖神域を生ずるの有様是が非でも感じ得

 神意言葉に顕すを難とするも森羅万象只神仏の化身を感ずるに長ける日本人にこの景色はまさに合致しよう

 などと解った風な言葉も思い浮かばず唯々形ある御利益を追い求める徹頭徹尾濁世の泥を拭い切れない自分だからこそより近くに神仏のご加護を感じようと、或いは只の好奇心と、ともかく少し工夫すれば堂によじ登る事も可能と思い至るは必然で


 後は一部期待の通り相成りに候

 辺りをよく見回せば今の今まで大層な雨量、普段流れのない所も洪水の如く滝からの水に洗われて流れの勢い強いこと容易に察せそうなものですが、信仰を前にしてあらゆる事に盲目となること図らずも体験できたこと

 感謝してこそが、尚去りがたき滝の前から去るのが一期とするのがよいと

 ささやかな滝行終わりと共に段々と晴れ間広がってきてややよい気持ちで山門まで戻ることが出来たのでした。山門まではね。

 

 追記 夏の暑さも和らいだとはまだ紅葉の季節でも無いこの時期正直交通の便に事欠くこの地にしかも平日にわざわざ足を運ぶ人の珍しいと見えて受け付けの方がお茶を勧めがてら寺院の概要をお話下さる。当寺伽藍、中世今より数多くそびえ栄えるもそもそもは一岩場の聖地より少しずつ岩場を削り伽藍の建立を広げ出来たのが今の寺域と。即ち浮浪滝とは当山発祥の大本にしてそもそも本邦仏教伝来以前の古代よりの聖地との由。そして滝中のお堂は中に入って参拝する類のモノでないと。早く言えよ。


 

*1:ウソです。どんな状況だろうと行くつもりでした