拾遺 長崎市木崎町 『金貸稲荷大明神もしくは神崎神社』

 http://d.hatena.ne.jp/sans-tetes/20090901の続きです。もはや問答無用でたたむ
 さて、山道を抜けて突如現れたのは小さな鳥居。鳥居の足下には幅も段差も小さくて、その割に全然手入れされてないもんだから所々朽ちていたり土台がぐらぐらしてたりキケン。でも恐らくさっき見た山の上の社に続く参道なんだろうと思っていたら、どうもちょっと違う様子。階段は所々幾つも枝分かれ、別れた先にはこのような小さなお社が

 こんな小さな社の中には自前の小さな鳥居を構えていたり、先程山道を抜けて一番初めに目に入った鳥居は頂上の神社に情熱を注ぎ込むあまり凄く控え目となってしまった一の鳥居かと思っていたのがそうではなく、件の枝葉道の先にある摂社の一つだったようです。

 所によって行ったり来たりの枝葉道が入り組んでいるので一時はどの道も頂上に繋がっていないのではと思いましたが、一つだけひたすら上に向かう道がありどう考えてもこれが本参道なのだなと当たりは付けたモノの、この本参道の階段も所々朽ちて足下キケン。

 さて、一番初めに目に入った鳥居が一の鳥居ではないと解ると、この場所は一の鳥居から少し参道を入ったところなのではないかと、つまり頂上へ伸びる方向とは反対に階段を下りていけば歴とした一の鳥居があるのではと、たぶん上まで登り切ってしまったらヘタしたらここまで戻るのかったるくなって一の鳥居を見逃すことも有り得ると自身の方向オンチは見定めないクセにココだけは妙に冷静になったりしたので、ひとまず降りてみることにする。

 案の定、眼下に一の鳥居。そして表参道を表す「神崎神社」の立派な石碑。更に頭上に女神大橋。となると目の前の対岸はさっきやたら苦労してウロウロしてたアレというわけで。そう思ってちょっと感慨湧き出てしまう僕って結構お人好し。
 鳥居はまっすぐ海側を向いていてなおかつ鳥居の前はあまり広い場所をとられていない。これは間違いなく船による参拝を想定した造りで目の前の長崎湾を行き交う船の安全を願って建てられているのでしょう。ところが現在では鳥居の目の前、護岸壁と柵が作られており船での参拝はおろか西泊方面から海岸線に沿って回り込んでの陸路の参拝も出来ないようになっている。たぶんそちらからのルートもどっかの社有地を通ってしまう関係でそうなっているのだろうが、あまりと言えばあんまりの仕打ち、そう思うと雄大に湾を跨ぐ女神大橋も神域を汚すように見えて軽い嫌悪感も抱かずには。

 とは言ってもやはりこのスケールの大きさにはへこたれるな。国を傾けてまで培った日本の土木技術万歳。

 ところでこの一の鳥居、奉納者は地元の人でなく遙か遠くの群馬の人。

 これはオドロキ。つまりはこの神社、9回表に覚醒剤打った勢いのままその裏マウンドに上がった江夏並にとてつもない御利益を有するのではと。そうと解ればもはやこんな悪態はつけない。

 こちらは一の鳥居とほぼ並んで建つ「船魂神」の鳥居。お狐が脇を守るが恐らくは海難に遭った人々を祭るモノなのでしょう。ますます悪態はつけない。

 一の鳥居はあんまり海に近すぎるので、山の木々が生み出す影は届かない。さんさんと降り注ぐ陽の光は鳥居をくぐって参道を山道へ向かうとすぐに届かなくなる。一つ所に海側の陽と山側の陰を擁するこの神域は取りも直さず不思議だ。

 途中、先程紹介したような枝道の先のお社を綺麗に掃除する夫婦に行き合ったので挨拶する。多くの社、多くはお稲荷様。先程の「金貸稲荷」なんて名前は素敵だが、色々な社を見てみると、どうも、個人で個別に建てて個別に奉っている様子が見て取れる。どうやらこの場所ではこのような信仰が伝統的に行われてきた様子。つまりは一種の聖地というコトなのだろう。お社の中にはこのように立派なお狐に新しい榊、供物の奉られたモノも。

 手入れのされていない崩落の恐れのある参道は本当にキケン。

 キケンなのだがこのように所々色々な願いのこもったお社が並ぶ参道の山道は足下への注意よりも山の持つ神秘を存分に匂わせてしばしば足下のキケンを忘れさせ、なおのことキケン。

 お狐さん以外の偶像も登場です。えべっさんにおきつねさん、えべっさんをお守りたもうお狐さんはつられて笑顔に見えます。

 満遍に念という心を込めて造ったであろう不動明王に寿老人? それに十二支像。表層に素朴さを、内に迫力を宿した姿に頭上に響くスズメバチの羽音を忘れて本気でヤバかった・・・。ちなみに左端のとぐろは「巳」です「う○こ」ではありません。そんな悪態ついてるからスズメバチに襲われる・・・。

 この十二支社を過ぎると今まで日を遮り地面を湿らせていた木々の姿が突然失せて、高い青空に目の高さにまで迫った女神大橋、土は消えて剥き出しの岩盤となった地面、と今までと全く異なった景色が現れる。道はこれまでで最大限の傾斜を造り険しくなるが、路肩に鉄の手摺りが付くので登るのにそんなに不便というわけではない。が、急に辺りの様相の変わった事に戸惑いながら上を目指していると頭上から老人の声で「こんにちわ」との挨拶。顔を上げると体格の良い老人がこっちを見ている。そしてその先には、先程女神大橋から望んだお社とお狐の姿が・・・。

 老人は女神大橋の少し先に住んでいるといて、昔からこの場所とこの「神崎神社」の管理人をしているとのこと。現役時代は船大工としての腕を買われ三菱造船でかなりの地位までつとめた経歴を持ち、その時から培った人脈を持って引退後もあちこちにある一定の影響力を持ちながら悠々自適に生活しているとのこと。それとは別に、戦時中軍隊に取られ戦地に送られた兄弟達の無事を毎日欠かさずこの神社に祈願したところ、兄弟は全て無事帰還し内地に残る一家も原爆の直接の被害を免れ、ご老人自身はその後原爆症の認定は受けることとなったモノの概ね順風な人生を歩むことが出来たのはこの神社のおかげと深く信仰、毎日の掃除や折を見ての補修、参拝者があればいかに霊験の高い神社であるということを説明しているとのこと。
 「よく来たね、まあ座りなさい」「どこから来たの? 埼玉? ワシはこの間良い出物があった古物の競りに東京まで車で行ったよ」埼玉と聞いても全く動揺しないもう90歳近いお歳とのことですがのっけからバイタリティー全開に溢れる会話をガンガン振ってくるご老人が勧めた席はゴツゴツした完全な岩肌。そんな岩石と、大正年間の銘の穿かれた鉄製の鳥居、数体の狛狐を従え遂に辿り着いたここが神崎神社の本殿です。

 同じ高度で周囲を覆う樹木は全くないので海からの風は物凄い勢いで絶え間なくぶつかってくる。湾口側、常に風を受ける側は岩肌、鳥居、社殿、お狐の区別なく尽く変色し中には削り取られ、朽ち、崩壊しているモノも多い。この神域を管理し所々修繕を加えることでこの過酷な環境を少しでも和らげている老人の働きは確かに重要だろう。流石に足腰が弱り急な階段を上り下りして下の方まで管理することは出来ないとは老人の言。 あれ? ではこの頂上までどうやって来たの?
 「本殿裏手の向こうから女神大橋から直接繋がっている道があり。橋が造られるとき県と神社庁に働きかけて無理矢理造らせた」と。老人の持つ政治力はさておいて、10分で来れる道のりを時間かけて来た私はどうもまたやっちまったらしい。ああたのし。

 お狐は豊穣の稲をもたらし、その目は遙か彼方を睨む。その傍らで老人の話は止まらない。周辺に「神」の名の付く地名の多い由来、昔神宮皇后の三韓征伐の際この地に立ち寄ったことがそもそもの由来であること、その内自身が趣味と財テク兼ねて蔵している古美術品のこと、果ては息子のグチに至るまでとにかく話す話す。遙かに世代を隔てた相手のお話はそれに付いていける素養があっても正直異次元の出来事のような意外性が面白く、神秘生臭多くを含む老人のお話は面白い。が、ここまで長くなり家族のグチまで入ると正直聞き疲れてくるのが本音なのだが、最後まで聞いていたらなんかくれるかも知れないと思って聞いてる。すると下界からまた別の参拝客。老人はそちらを歓待しだしその間私は本当の休憩に入る。

 夫婦連れの新たな参拝客はこの社のウワサをかねがね聞き及んでおり時々参拝されるとのこと。「遠くから」「福岡から」とのことだがさすがに「埼玉から」には驚いていた。驚かなかったのはこの爺さんぐらいだ。

 ↑この先道が無さそうなところが登ってきた参道。
 この神社の霊験を一つ。ある近所の青年失業者が、あまりに仕事がなくて困っていたところこの老人に勧められてこのお社にお参りを始めたらいきなり定職に就くことが出来たとのこと。青年はその事に感謝してお礼に社に燈明台を献納して今でも折を見てはお参りに来るようになっているという。燈明台にはマジックでしっかりと名前と住所。

 本社の周囲には多くの社に偶像。どれも大変好感度の高い手作りテイストに溢れている。たぶん多くの個人個人が個々に納めお奉りしたモノなのだろう。どういう信仰がこのような形になって今に至るのかはよく解りませんが、神仏と人との間に嘗てあった自由な信仰を物語るようで興味深い。

 そして、一定の方角にはほぼ必ず出現する恐ろしくミスマッチな近代構造物・女神大橋

 この場所におけるその存在はいろんな方面から色々と言いたくなりそうにはなるが、何にせよこの場所からの眺め、絶景・奇景の感を成していることに異論はない。
 あちこち撮影の間、新たな参拝者、犬の散歩途中の人(!)等、なにげに人訪れる。来る人来る人尽く掴まえてまだまだ話し足りない様子の老人に、流石にこの後の予定もあるのでと別れを告げる。参拝の記念に、「全ての人にあげるわけではない」と一言添えて渡されたのは「金貸稲荷」の字の書かれた祝儀袋に入れられた五円玉。「貸せば貸すだけ倍ずつになって戻ってくる」との意がり、深く信仰したさる人は企業を興し多く財を成したとのこと。

 帰って後、お話とお守りの礼状を老人宛にしたためる。「手紙くれれば必ず返事返す」といっていた割には未だに返ってこんところを見るとあれやっぱボケとったんやろなぁ。しかしボケは老人にしか為し得ないいわば特権です。じじぃ、これからも長生きしてくれ。 おわり