夕張行その2 坑口探してじじいに怒鳴られる

 今回夕張市始め空知地域に来た目的は炭鉱遺産を見て回りたいという希望があったからです。ただ夕張市の場合、炭鉱遺産の探索についてはすごく乗り気でないらしく、夕張市でオススメしている直接旧炭礦産業と繋がる遺跡は石炭博物館のみと云う有様で、現在財政再建団体となった事情とも相俟って公的な紹介を頼るのは非常に心許ないというのが正直なところです。旧北炭平和炭鉱の跡地を覆い隠すように運動場を作っているのはその典型でしょう*1。よって自分で適当に調べて当たるしかないと云うコトでまず各地観光の目的にしたのが「坑口」跡で、要は掘ってる穴の近くならなんか残ってるだろうと言う安易かつ合理的な考えから至った結論です。更にその結果を先に述べるとこれが「大失敗」と云う結果に陥ることになりました。その理由は追々記事に記していくとして、今回の北海道行、「何か目標を定めてそれに行き当たる」と云う意味で言えば大失敗と言って良く、これから記す記事は概ねがその失敗の記録になりますのであしからず。

 夕張滞在時のお宿が南清水沢駅近くにありましたので、自然夕張探索はこの場所を拠点として計画を立てました。まず狙いをつけたのが宿のある南清水沢地区から丁度東側にある「北炭夕張新炭礦」跡です。位置的にはほぼ真東に当たるものの、その間に巨大な夕張川が流れているので橋の架かっている北側へ迂回して行くことになります。南清水沢の対岸は清水沢清陵町と云いまして住宅地になっていますが、中には炭礦稼働時からあると思しき住宅も多く見受けられます。目的の坑口はその清陵町の山に面した西端に今も生々しい坑口跡が残ると云う「北炭夕張新炭鉱」です。

 何故産業遺産に「生々しい」と云う修飾を冠したかと云うと、この場所こそかの「北炭新夕張炭鉱ガス突出事故」の舞台となった事故現場の坑口で、この事故で犠牲となった人々の遺族さんにとっては当然大事な人達を失ってしまった場所であり、また当事故によって名実共に終わりへの道を転がり落ちることになった国内炭鉱事業の墓標として、産業遺産と一言で括るにはあまりにも深く暗い事実を今に伝える役目を担う「遺産」だからです。

 坑口は住宅地から一目でわかる位置にあります。目の前が清陵町市民センターと清陵町共同浴場と公共の建物。まだ開館前らしいのですが、一方の入り口が開いていたのでこちらの駐車場へバイクを駐めてさせてもらい坑口へ向かいます。

 入り口には未だに夕張新炭鉱の看板がスローガンと共に残っています。夕張市の旧炭鉱関連施設を巡ると解るのですが、夕張市は方針としてそれら旧施設を上から塗り潰すかのように破壊・撤去するのが基本施策としているのが解ります。閉山から20年を経てその施策はほぼ完遂している言ってよい中、未だにこのように当時の「心」が解るほど「生々しい」遺物が残されているのは極めて異例です。

 坑口へ近づくとその右側の高台になにやら碑が立っているのが見えます。間違いなく事故の慰霊碑でしょう。まずはこちらに手を合わせるのがマナーだと思うので。

 雨上がり、慰霊碑はカタツムリが占拠。もしかして気持ちいいのかしら?

 慰霊碑から望む清陵地区。慰霊碑の建つ場所はそんなに高所ではないのですが、地区の半分ほどが一望でき、そればかりかその向こうの夕張川を越えて南清水沢の辺りからそのすぐ向こうに迫る山々、夕張一帯は本当に狭い、谷のような場所にあるのです。

 さていよいよ坑口に。

 坑口は当時の鉄製の覆いがそのままに錆びるに任せて放置。さすがに内部へは鉄柵に阻まれて進入はできませんが、少し先まで行った所で扉の付いた鉄の壁で阻まれています。これだけ大きな廃坑の坑口は土砂・コンクリート等で塞がれているコトが多いのですが、このような廃棄というより本当に放棄と云った感じの坑口はあまりありません。


 何となくモノクロ

 坑口周囲は当然のことながらまだ枯れていない夏草で覆われています。坑口正面は時たま訪れる人がいるせいか踏み分け跡で道が出来近付くことができるモノの、ちょっと外れるともう目の高さまで草が覆っていて歩くのめんどくさいです。坑口の横側から山の上の方に登るような道があるのですが、目の前見えない、足元も見えない、おまけに足元悪いときたのでやめておきました。

 見るモノはごく僅かに過ぎないのですが、正面の辺りを少しウロウロするだけで廃墟の冷たい負の質感を感じ得ます。そんな気分に覆われながらバイクを置いた駐車場に戻ると周囲の草刈りをしていたじじいが草刈り機手に近付いてくるや突然何やら罵声を浴びせてきます。初めは何が起きたか解らなかったのですが、どうやら駐車場に勝手にバイク置かれたのが気に食わなかったらしいです。どうもかつて、珍とかマナーの悪いバイク乗りが夜とか訪れて散らかして帰る等の被害があったとのことで以来駐車場入り口にロープを張って用のない時以外は車両の進入しない様にしていたのが本日に限って草刈りの準備の間ほんの少しの間だけロープを外していたその隙にバイクを駐められたという行為がこのじじいにとって非道く狡猾な策略に思えたらしい。概要が飲み込めたので謝ったがなんか許してくれない。じゃあすぐどけますと言ってもそう言う問題ではないとかでまた怒鳴る。ああもうどうすれば。

 どうも、「駐める許可を(管理人の)俺に問え」と云うことらしく、その通りにしたところとりあえずバイクを駐めるのは許してもらえた。その上で「もう用は済んだから」と云って去るのはなんかイヤミったらしいので、駐車の許可をもらった分は周囲を歩いて回ることにしました。

 おそらくは北炭の新夕張炭鉱と云う起死回生策を行政としても全面的に推すべく、その最前線清陵町はそれまであった炭住に加えて更に多くの住宅を建てたのでしょう。街中には「恐らくは企業で建てた炭住」「行政の方で建てた炭住に準じる市営住宅」と違った形の集合住宅が三種類ほど区画を分けて並んでいるのが面白いです

 そして夕張住民、イヌ派が多し

 かつては住宅が並んでいたであろう空き地に悉くススキ

 住宅の裏にズリ山。これはたぶん新夕張鉱のモノでは無くもっと古いもの?

 高台に廃校

 街中に漂うのは少しずつ廃に向かう薫りです。

 清陵町を一回りして駐車場へ戻るとさっきのじじいが一服していました。「あんた、ここの炭鉱の歴史とかそんなことを解ってて来たのか?」まだカラミモードに入っているようです。ただ炭鉱のお話を振ってきたと云うことはこのじじい、昔はバリバリの抗夫さんだった可能性、と云うかこの大きな手節くれ立った手を見れば間違いなく抗夫さんだったのでしょう。これは取り入れば面白い話が聞けるかもしれない・・・「はい、色々調べて夕張市内の炭鉱遺跡を回っています」
 ・・・じじいの目付き表情が変わりました。どうやらなんか琴線に触れたようです。このご老人、間違いなく昔この場所で働いていたとのこと。目の前の市営銭湯は昔の抗夫用の風呂の名残だったとか自分はずっと二番口で働いていたとか閉山後職のなくなった元抗夫は夕張を出ざるをえなかった自分は運良く職があり今でも住んでいるが年々住み難くなる、産業がなくて若い人がいないから長く住める場所でないのは解っているがどうしようもない等話は聞けたのですが、聞けたのはそこまでです。先程までの硬化した態度から多少は打ち解けたとは言え、炭鉱の詳しいお話はあのお話に触れざるをえないのでしょう、そこまで打ち解けた関係になれるわけはありません。話を聞けたお礼を言うとその場を離れました。次は真谷地方面に行ってみようと思います(つづく)

 補記 上記触れた「坑口」なのですが実は坑口ではなく坑口方面へ抜けるための「通洞」に過ぎないとのこと、後から得た情報でわかりました。それによるとこの「通洞」から先、山の向こう側には本物の坑口(斜坑・竪坑)、破壊された施設の土台等まだまだ沢山の炭鉱関連遺物が点在しているとのこと。失敗です。全ては草の生い茂る季節に訪れたことです。つまり当記、失敗の一番目の行。ああ腹が立つ。

*1:前の記事にも記しましたがこの運動場自体は市民へのウケは結構ヨイ