サルバトール・ダリ『パン籠』

sans-tetes2007-07-17

 「この病棟には、なんでダリの『パン籠』が飾られているのかな?」手術直後、なるべく患部に負担をかけないようにゆっくりゆっくり歩いていた時の話。
 多くの病院で、院内の廊下に、絵が飾られている。その機能的性質上、院内装飾は白を基調とした方が無難であると決まっているかのように、大概どこの病院でも似たような造りになっている。そのぶっきらぼうな白い壁を埋めるため、いつの頃からか額に入った絵で飾ることが始まったようだ。
 問題は、少なくとも健康とは言い難い人々が集う病院という場所に、この『パン籠』という絵画を飾ることが適するのかどうか。その当時の私の場合、思いがけなく出会った「名画(レプリカではあるが)」をじっくりと観賞できるような状態でなく、当然その時に第一の目的としていた行動「歩くこと」を優先。
 ところが、行き過ぎてから、その絵が頭の中に残って妙に気になる。ここらが名画たる所以なのであろう。その時の体調から、来た道を引き返して見直すのも億劫、どうせループになっている道筋、また再度目の前にその絵の現れるだろうことを予想して、頭の中に、その「絵」の残ったまま、しばし頭の中に浮かんだままの『パン籠』を観賞する。不思議としか言いようがないのだが、それほど鮮やかに『パン籠』が頭に残ったまま消えなかったのだ。
 それで、その『頭の中のパン籠』を観賞して感じたこと、あまりに稚拙な感想しか浮かばないこと、大変恥ずかしい。我が頭の中に中空に、ぽっかりと浮かんだ実写以上に優れた静物画、なぜか降りてきた ビートルズ『ラバーソウル』のアルバム丸ごとがバックに流れている。もっと後期の方がダリに合いそうなものだが、ここら辺、完全に操作不能の意識外の出来事のようなもので、あまりに突飛な私のセンスを顕わしているのかもしれない。手を伸ばし、一切れ掴み、千切って、口の中に放り込もうとなどとは間違っても考えまい。本物以上に表現された本物の紛い物は、最終的に「理解不能」と思考停止するしかない凡人の底の浅さを見透かしてやたらとただ漠然とした不安に引き込む。バックに『ラバーソウル』が流れていることが、ある程度自らを正気に保つ意味でどれだけ救いになったことか。 
 以降、院内で実際に『パン籠』を見ていない。あの後、ループして再び訪れた道すがらにおいても、体調が大分良くなって、再びその場所を訪れた時にも。何故か、その場所にはかつて入院していた患者さんから寄贈されたという果物籠に果物を満載にした静物画が飾られていた。病院内に『パン籠』が飾られていないことにほっとした。
 
 「この絵の作者がダリでなかったなら、あなたはそのようなこと、思い浮かべますか?」