『丑三つの村』

 昭和十三年に起こった「津山三十人殺し(「津山事件」よりこちらの方の響きがそれらしい)」を題材に、事件の当事者である都井睦雄(作中「犬丸継男(古尾谷雅人)」)を主人公に、事件のきっかけとなる出来事から実際の事件まで順を追って描かれている。
 題名の「丑三つ」とは、直接的には実際に凶行の行われた午前2時頃(正確には1時40分)から4時頃の時間を差すのだと思うけど、私的には、継男が凶行(作中では「鬼になる」と表現。要は頭がおかしくなったのね)に至る遠因となった山村独特の因習(「夜這い」や「余所者へのリンチ」)がやはり「夜密かに、且つおおっぴらに行われる」ことから昼と夜とで全く別の様相を見せる山村の様子、引いては嘗て村始まって以来の秀才ともてはやされされた継男が、肺結核の発症による兵役丙種合格、以降無為の人となることにより手の平返したように村人から受ける村八分の扱い、継男自身の短い人生における日の当たる希望に満ちた前半生=昼と日の当たらなくなった後半生=夜とのギャップを「丑三つ」という言葉で象徴したのかな、とあえてあまり意味のない深読みをしたのだけど。何故「意味がない」というと、それは映画を観れば一目瞭然で、この映画の最大の見せ場が日本人として世界に誇る短時間大量殺人記録を持つ都井睦雄の行動を忠実に再現することが目的なのだから、本当の意味で映画が始まるのは物語の後半、遂にその決行の時、午前一時を告げる柱時計の音と共に起きた継男が、一糸纏わぬ姿に褌から始まりあの詰め襟・鉢巻電灯(?)を装着、肩からは大量の弾丸を入れた頭陀袋、腰には日本刀と匕首、腕には改造猟銃、例の「八つ墓村スタイル」を完成させるやたら念入りの描写からといって良い。だから、そこに至までに起きた、村の因習が強調される話とか、肺病持ちの孤独の中で段々と妄想と狂気に支配されていく継男の有様とか、そんな中でも純愛を貫こうとする幼なじみ(田中美佐子)との悲劇とか、登場する女優陣のヌードとか、一応色々考えて張っていたであろう伏線が、「ぴろぴろぴ〜ん、ぽよよ〜ん」とか変身中に鳴っている変な音楽と共にまるですべてなかったかのようにぶっ飛ぶ。たぶん、映画が最初からこのシーンから始まっても、その冒頭に「犬丸継男は肺病をきっかけに村の女性誰からも相手にされなくなった」というナレーション若しくは字幕を例の変な音楽と共に入れてしまえば済んでしまいそう。
 後はもうここから、私のような人でなしが大好きな大殺戮のシーン。人でなしならずとも日本映画史に特筆されるであろうスプラッターシーンの迫力と付随するクールなセリフ(「大人しゅう寝とれ!あほんだら!」「クソババア、夜這いに来たぞ!」「結婚、おめでとさん」等々)は本当に一見の価値あり。一見でよいか、また見たいかという人でなしのボーダーラインは置いておいて、このシーンを堪能することで、改めて「このシーンの為だけにある映画なんだなぁ」ということが実感できる。
 ではここらで、皆々様さようならでござんすよ。ところで俺のPCはなんで「といむつお」が一発変換できるんだ?